――ゼロ年代とジェノサイズの後に残ったのは、不愉快な荒野だった?生きながら葬られた〈元〉批評家が、墓の下から現代文化と批評界隈を覗き込む〈時代観察記〉
『ロンドンオリンピック総集編 2012年8/30号(週刊朝日増刊)』
墓の下で長いこと寝ていたので、浦島太郎になるかと思ったら、そうでもなかった。墓前のお供え物のおかげかも知れない。
2009年に出た『批評のジェノサイズ』(小社刊)という本では、ロンドンオリンピックで無差別テロに遭遇して死ぬ予定だったのだが【※】、実際、倒れて死にかけて入院して、医者から「あんたはいろいろやっとるみたいだが、一番疲れる仕事を辞めないと、本当に死ぬぞ?」と言われたので、批評の仕事を辞めた。なので、死んだというのは嘘ではなく、批評家としては死んでいたのだ。肉体的には歌を忘れたカナリア、もしくはヤングマンを忘れた西城秀樹のような状態だったから、ロンドンオリンピックどころかキャバレーロンドンにすら行けずに生き延びてしまったのだが、批評から離れて気づいたこともある。『批評のジェノサイズ』で「批評はすべて何かしら党派性の産物でしかない」とかなんとか語っていたのだが、あれも対談という時点で勘ぐられる党派性を帯びてしまうのだ。これに関しては読者と関係者へ詫びるしかない。批評家であろうとするなら、誰からも切り離され、独りで語るべきであった。
かくして、批評家だった頃の人間関係を断って墓の下で寝ていたので、現世の動向はラジオで聴いて知る程度だったが、墓前に毎月、「サイゾー」最新号が供えられていた。辞めたのに義理堅い編集部だと思ったが、寄稿者登録を消すのが面倒臭かっただけなのかも知れない。
墓の下にテレビはないので、お供え物の「サイゾー」を読む以外はだいたいラジオを聴いていたのだが、墓の下は電波の入りが悪く、TBSラジオ以外はロクに聴こえないので毎晩、多彩で賢しらな批評的言説を聴く羽目になった。週イチで外山惠理アナが茶化しているうちはまだ良かったのだが。言問団子の娘で永六輔の介護担当は毀誉褒貶あれど、似非インテリと田舎者には厳しかった。ああいうひとが横にいて相対化しないと、批評的言説というものはひどく啓蒙的で気持ち悪いのだ。念のため、墓から這い出してから、最近の批評界隈の本を手に取ってみたが、やっぱり現実味のない世直しを考えている不思議なひとばかりで気持ち悪くなった。筆者の出自は編集者やディレクターの類で、批評とは縁のない「消費されるだけのコンテンツ制作」の現場にいたのだが、批評界の片隅から退いて元の立場から見渡してみると、危機感を煽っては絵空事のような希望を謳い、無理矢理アッパーにキメている批評家の言葉は、市井の人々の生活から隔絶しているように思えた。
それにしても、批評家はどうして世直しなど考えるようになるのか?
元はただの拗ね者だったはずだ。何かに挫折しなければ、わざわざ批評家なんぞに成り果てるはずがない。本気で世直しを考えている批評家は誇大妄想をこじらせた復讐鬼でしかなく、本気でなければ興行師の類だ。批評家なんてものは「王様は裸だが……きみも裸だ! あなたも裸だ! おまえも裸だ! きさまも裸だ! 貴兄も裸だ! 貴女も裸だ! てめえも裸だ!」と言い放って、すべての人々から石を投げられて殺される程度の存在でしかなく、何かの間違いで世に認められたとしても、せいぜいスサノオか将門か権五郎景政のような荒神で、本質的には除け者だ。しかも、自分自身をメディアとして編集し、自己演出することで読者/支持者を集め、金に換えていく仕事だと考えると、職業構造的にはカルト宗教の教祖様と変わらない。よって、己を律する「編集力」が弛緩すると、ツイッターで思いつきを垂れ流しては炎上しつつ、信者を囲い込んで辛うじて生き延びているだけの教祖様へ堕してしまう。復讐鬼と教祖様の狭間で興行師にもならず、「王様は裸だ!」と叫び続けるのは、考えてみれば至難の業だ。
本誌で連載された宇野常寛氏と更科氏の対談を収録。
さて、この連載が始まったのは、墓から這い出した開放感でうっかり「墓の下で眠っている間に忘れられ、すべての党派性から切り離されている今なら、現世のしがらみに気を使うことなく、純粋に語れるのではないか?」とか思ってしまったからだが、孤立しなければ、まともな批評は書けないのだとしたら、そんなものは書かないほうが幸せだろうし、若いひとが「批評家になりたい」と言い出したら、きっと「批評なんてやめときな?」と言うだろう。そして、「だったらお前は何者なんだよ?」と問われたら、「かつて批評家と呼ばれた雑文屋」と答えるしかない。「The Artist Formerly Known As Prince」ならぬ、「The Writer Formerly Known As Critic」だ。
【※編注】同書最終章は、「死んだ更科氏をイタコで呼んで、2019年に行われた対談」だった。
更科修一郎(さらしな・しゅういちろう)
〈元〉批評家。90年代以降、批評家として活動。2009年の『批評のジェノサイズ』(共著/小社刊)刊行後、病気療養のため活動停止。不在の間、生前(?)の言葉を都合よく引用し利用している者をいくつか見かけた。死者の言葉を神輿にすれば、確かに火の粉はかかるまいが、不快なり。