――「格差」が社会論の中で常に中心におかれ、「勝ち組/負け組」というキーワードが一般化した昨今。政治、経済、文化などなど、現代社会における人間のあらゆる営みで生じている、ゆがみやきしみ、構造不全、機能不全といった諸問題を、マッチョとヘタレという視点で整理し、解決の糸口を探っていく本連載。第4回目は、サイゾー読者も日常的に消費している、サブカルチャーの中から、アイドルに焦点を当て、マッチョとヘタレを論じていきます。
【バックナンバー】
■第一回「マッチョ主義からヘタレ中心主義の転換が日本を救う」
■第二回「与沢翼的な"信者ビジネス"にハマるマッチョワナビーたち」
■第三回「会社内部で"出世しないでも自由に働く"サラリーマン処世術とは?」
境氏の著書『アイドル国富論』
クロサカ 今回は、これまでと少しアングルを変えて、カルチャー……とくにサブカルの視点から“マッチョとヘタレ”について考えてみましょうか。というのも、以前、境さんからうかがったアイドル論と、その文脈で語られるマッチョとヘタレに関する考察が非常に興味深かったので。
境 おぉ、ありがとうございます。ご存じではない方もいらっしゃると思うので、いちおう説明しておきますと、僕はずっとアイドル論を自分の専門領域のひとつに挙げておりまして(笑)、これまでさまざまな論考を発表してきました。そのまとめとして2014年10月には『アイドル国富論』(東洋経済新報社)なる本を上梓したりもしています。
それで、アイドルを“マッチョとヘタレ”文脈で読み解いてみると、いわゆるアメリカ的マッチョイズムと、日本的ヘタレイズムの対立構図が透けて見えてくるんです。
クロサカ それは興味深い。詳しく教えてください。
境 いま挙げた対立構図は「スターの国」と「アイドルの国」と置き換えることができます。たとえば、マドンナやテイラー・スウィフトといった人気シンガーたちは、スターですよ。スターというのは、ファンの前に立って、堂々と号令を出して、自分に向かって視線をひきつける。アーティストとして、カリスマとして、「私を称えろ!」「私について来い!」と聴衆の中心から魅力を発し、ファンはその魅力に惹かれてスターを崇めるわけです。
クロサカ なるほど。一方、アイドルは?
境 たとえば、僕も大ファンのももいろクローバーZあたりは端的ですが、日本におけるアイドルは“巫女”なんです。誤解を恐れずに言ってしまうと、小娘が一生懸命な姿を披露して、聴衆を煽る。でも、そこにはどこか謙虚にファンに対してコミュニケーションを計ろうとしたりする姿勢がある。聴衆にしても、アイドルに対してアーティスト性は期待していない。歌やダンスがうまくなくてもいいんです。多少ヘタクソだって「かわいいコが頑張っている姿」に共感できれば、彼女たちを精一杯推すファンになる。むしろ、この“巫女”をある意味利用して、ファンたる人々が集えることのほうが大事だったりする。
クロサカ つまり、背景にあるメンタリティが違う、ということでしょうか?
境 そのとおりです。スターの国にはマッチョイズムが国家の根幹にあって、「社会には強者と弱者が存在して当たり前」という価値観が浸透しています。強者が弱者を引っ張っていくから、弱者はフォロワーとしてそれに付き従う。社会自体が、一握りの強者を生み出すために存在している、みたいな感覚でしょうか。誰かの言葉で「経済戦争国民総動員体制」というのもありましたよね。だから、強者は弱者から崇め奉られるべきだし、それゆえ強者は圧倒的な存在でなければならない、と。極めてシンプルなマッチョ志向です。
クロサカ なんというか、「それなんてハリウッド!?」という感じですね。
境 それに対してアイドルの国は、競争から脱落した者たち、競争にすら参加できなかった者たち──いわゆる「その他大勢」が、いかに劣等感や卑下心、プレッシャーを募らせることなく、自分なりに幸せを感じながら生きていけるか、という価値観が社会として実現すべき理想になっている。つまりは、ヘタレ志向ですよね。
これまでの連載でお話ししてきたように、ヘタレ中心社会であっても、先頭に立ってその他大勢を牽引してくれるマッチョの存在は必要。ただ、一見、マッチョがヘタレを率いているように見えて、実はヘタレがマッチョに率いさせてやっている、という構造を理解し、マッチョ側が「ヘタレの皆さんがいてくれるから、自分がある」と謙虚にならないと、ヘタレはついて来ない。
クロサカ 主従関係でいうと、ヘタレが主で、マッチョが従──それこそが、この連載に通底する僕らの共通認識なんですよね。そして、だからこそ、マッチョには節度というか、ヘタレに対するマッチョとしてのお作法が求められるであろうと。
境 ええ。それはアイドルにおいても同様なんです。スターが「わたしを見ろ! わたしの歌を聴け!」と高いところで仁王立ちしているとしたら、アイドルは「皆さんのために頑張ってます! アナタも応援してくれたら嬉しいかもぉ」なんて揉み手をしながら、同じ高さまで降りてきて、向こうから近づいてくるイメージ。
クロサカ 「おぉ、それじゃキミのこと、俺、全力で推しちゃうよ!」とファンも親近感を抱く(笑)。
境 それそれ(笑)。「俺が推してやってるから、あのコは伸びているんだ」という感覚って、まさに先ほど述べた“真の主従関係”の構造そのものじゃないですか。日本のアイドル文化は、まさに日本が守り伝えていくべきヘタレ志向の縮図みたいなものなんです。
クロサカ そんなヘタレ国家の象徴たる日本のアイドル文化が、クールジャパンの文脈で海外に進出している……というのが昨今の動きで、とても興味深いところです。
境 確かにそうですね。そうなんですが、実は僕、現状のクールジャパンには懐疑的でして。これはマッチョに慣らされた海外の人たちには気にならないかもしれないんですが、日本が生み出したこの楽しい文化を、優れているという意味の「クール」という言葉で表現するのは、どうにも皮肉にしか見えなくて。むしろ淡々と、「売れる文化を最大限売っていこう」とだけいえばよくて、そこに「クール」とか価値判断的な言葉を入れる必要はないでしょう、と。仮にそれが自家中毒をおこして「“クール”じゃなくちゃいけません!」と国内の外野……つまりエンタメ産業の送り手でも消費者でもない人たちから、変な圧力でも加わえられたら元も子もない。
クロサカ 卓見というか、境さんの言葉として聞くと、重みがグーンと増しますね。10年くらい前にCool TAKという謎のアーティスト(?)が「俺ってかっこいいな」というPVをyoutubeに投稿して、みんなでゲラゲラ笑ってた記憶があるんですけど、クールジャパンにも「自分でカッコいいって、お前どんだけ」みたいな印象があるのは事実。そしてその背景には、単なる嘲笑程度では済ませられないような、クールというセールストークと、売りだそうとする日本の「楽しい」文化の乖離というか、正反対の志向が存在しているということか。
境 あと、もうひとつ僕が気になっているアングルが、アイドル文脈に見る日本のマッチョ化と、アメリカのヘタレ化。
AKBグループにしても、ももクロにしても、ヘタレ志向に根差した日本のアイドル文脈に、基本的には倣っているんだけど、一方で、強烈なまでの「頑張る姿」を臆面もなく見せつけたりするんですね。AKBなんて、グループ内での順位付けを明確にして、メンバー間だけでなく、ファンのあいだでの競争心を煽ったりする。これってある種、競争の是認であり、強者の礼賛であり、優劣とか上下の関係性の容認なんじゃないかと。
クロサカ アイドルの中にスター性を内包している、という感じですか。確かに総選挙って称してますけど、投票という方法は採用しているにせよ、結果として見せられるのは、順位付けのための「勝ち抜きコンテスト」ですよね。前年比で勝った負けたを競って、それ自体がドラマとして扱われているわけだし。欧米で流行しているスター誕生的なオーディション番組に似ているのかも。
境 この連載で前にも言いましたけど、「一億総勝ち組!」みたいなマッチョ幻想に国中が浮かれたバブル期を経て、グローバルな市場経済における熾烈な実力主義志向とか優勝劣敗の構図、勝っても負けても自己責任といった価値観が跋扈するようになった。
クロサカ そうした過程で、日本においても「なんだかんだキレイごとを言ったところで、人間には優劣があるんでしょ」と、諦観の混じった競争社会の是認がじんわり広まったのではないか、という議論は連載の1回目でもしましたね。
境 はい。そういう日本人の心性みたいなものが、最近のアイドル文脈に見え隠れしているように感じているんです。日本人は80年代あたりまで、ヘタレということをまったく自覚しないくらいの真性ヘタレだったと思うんです。それが、バブルだ、格差社会だといった変遷を経て、ちょっとだけマッチョ的な価値観がマインドセットされた。とはいえ、マッチョにはなりきれない。こういう姿勢を私はヘタレマッチョと呼んでいるんだけど。
クロサカ アメリカのヘタレ化は?
境 マッチョイズムの本丸たるアメリカは、いまでも強者として、資本主義社会の盟主としての自負をギラつかせていますけど、それはところどころにゆがみやきしみを生じていて、確実に人々の価値観にも影響していると思うんです。たとえば、ポジティブシンキング原理主義的な姿勢への反発とか。どんな苦境においてもポジティブであろうとするのがアメリカ人の矜持、みたいな感じで発展してきた国ではあるけど、これは一方で、圧倒的に強者にとって都合のよい価値観でもあるんです。
クロサカ 「どんなときでもポジティブでいようぜ!」というのは、強者だからこそ言えることですからね。自分がクビを切った人間に対して「残念な結果になったけど、まあ、ポジティブでいようよ」「ポジティブでさえいれば、いいことあるさ」なんて、そんな都合のいい話があるかと。
境 でも、それをやってきたのがアメリカという国。それでも“世界一の国”というプレゼンスを保てていたときは、どうにかなった。アメリカ人であることが幸せ、みたいな価値観が強かったから。でも、近年のアメリカは内外でさまざまな問題を噴出させている。
クロサカ 確かに、アメリカ国内では底割れがひどいことになって、人の生き死にに直接関わるところまできたから、「ポジティブ大好き! みんなで競争うぇ~い!」という国是を大転換して国民皆保険を導入するという、いわゆる「オバマ・ケア」が始まりましたね。
境 ポジティブであることに疲れてしまい、「ちょっと勘弁してほしいわ」というムードが一部で醸されるようになってきた。マッチョの本丸、ポジティブシンキングの本流ともいうべきアメリカが、疲弊してきているわけです。
クロサカ そんなムードのなか、疲れた人々の心を癒すようにして、日本のヘタレイズムの化身のようなアイドル文化、日本のポップカルチャーが海外で受け入れられていった、というわけですね?
境 そういう一面はあるでしょう。「どんなときでもポジティブ!」というアメリカ的ポジティブシンキング原理主義に対して、「つらいときは、つらいって言おうぜ」という極めてウェットで身の丈感のあるスタンスが、日本のヘタレ志向。アメリカにも中流主義はあるのですが、どうしてもマッチョ志向のために、ポジティブシンキングの方向に流れちゃって、ヘタレの心に沁みる文化を産みにくかったんだと思います。
だから、アメリカのマッチョ志向やポジティブシンキングに馴染めず、ずっと居場所がなかった一部のアメリカ人とか、もとはポジティブシンキングを信じていたけど「最近ちょっと違和感あるわ」と感じ始めたアメリカ人に、日本のヘタレ志向が非常に刺さったのではないでしょうか。社会通念や宗教ですら救えなかった人々を、エヴァンゲリオンやセーラームーンが救ってしまった。「泣いてもいいんだよ」と抱きしめてしまったのではないかと。
クロサカ 中流が壊れた後のアメリカに、日本のポップカルチャーは、福音として機能したワケですね。しかしそんなアメリカとは反対に、日本ではマッチョ志向やポジティブシンキングがいまだ生き残り、「国民皆保険とか年金とか、もう全然無理っす」みたいな流れを形成しようとする向きもある。現実として直視しなければならない面もありますが、なんだか皮肉な話です。
(構成/漆原直行)
境 真良(さかい・まさよし)
1968年、東京都生まれ。国際大学GLOCOM客員研究員。経済産業省に本籍を置きながら、産官学それぞれでコンテンツ 産業や情報産業、エンターテインメント産業の研究を行う。このほど、『アイドル国富論: 聖子・明菜の時代からAKB・ももクロ時代までを解く』(東洋経 済新報社)を上梓。そのほかの著書に『テレビ進化論』(講談社現代新書)、『Kindleショック』(ソフトバンク新書)など。
クロサカタツヤ(くろさか・たつや)
1975年生まれ。株式会社 企(くわだて)代表取締役。クロサカタツヤ事務所代表。三菱総合研究所にて情報通信事業のコンサルティングや国内外の政策プロジェクトに従事。07年に独 立。「日経コミュニケーション」(日経BP社)、「ダイヤモンド・オンライン」(ダイヤモンド社)などでコラム連載中。