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第1特集
芸能人夜遊びの系譜

銀座、六本木、青山、そして中目黒へ……芸能人が集う街の時代的変遷

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――芸能人は、良くも悪くも世の中を映し出す鏡のような存在だ。どんな街にどんな芸能人が集まっていたかを見れば、その時代の空気が浮かび上がってくる。かつて大物芸能人が集う場所は銀座と相場は決まっていたが、いつしか六本木、青山、中目黒へと南下している。その変遷を追ってみたい。

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今も昔も“この街で飲むこと”がステータスとされている銀座のネオン街。

 東京の盛り場として最高峰の格式を保つ街といえば、やはり銀座だろう。現在も「銀座で飲む」という行為は社会で成功したことの象徴として一種のステータスになっているが、芸能人はこの街でも独特の存在感を見せてきた。

 1950年代半ば、黄金期を迎えた映画産業は中村錦之助、三船敏郎、鶴田浩二、さらに勝新太郎、石原裕次郎、小林旭といったスターたちを次々に生み出したが、そんな映画スターたちが集まったのが銀座だった。当時を知るベテランの芸能記者が話す。

「銀座にスターが飲みに来たもうひとつの理由は、道の広さ(笑)。当時はデカくて高価なアメ車に乗るのがステータスで、銀座は道幅が広く、まさにうってつけの場所だった。名だたる高級店の目の前に主演級スターの愛車が止まり、車を止める場所が遠くなるにつれて役者の格もどんどん下がっていくんだけど、電通通りあたりにキャデラックやリンカーンといったアメ車がズラリと並ぶ光景は珍しくなかったよ」

 接待費などで飲む他の社用族と違い、ほとんどのスターたちは自腹で豪快に飲むことで、その存在感を見せ付け、数々の逸話を残してきた。

「お店の女の子や居合わせた客まで『一緒に飲もう』と誘い、最終的には見ず知らずの人間100人近くを引き連れて銀座の高級店をハシゴした。もちろん支払いはすべて自分持ち」という勝新太郎の酒豪伝説は有名で、小林旭や石原裕次郎にも同様の逸話が語り継がれている。また、当時は役者の”格”がハッキリしていたため、宍戸錠のような二番手クラスの俳優たちは、銀座で飲むことは少なく、銀座と並ぶ高級繁華街とされていた赤坂に流れていたという。さらに下の中堅・若手クラスは、砧や調布にあった撮影所の帰りに飲みやすかったということから、まだまだ田舎だった下北沢などの世田谷界隈で飲むようになり、これが後の小劇場系や中堅・若手の俳優たちが集う街としての隆盛につながったともいわれている。

「ナベプロの創業者・渡辺晋社長が『俺たちはいつダメになるかわからない仕事なんだから、稼いでいる間に家だけは買っておけ』と奨励した影響もあって、沢田研二のようなスターからハナ肇、ナベプロ幹部まで、こぞって世田谷界隈に家を買ったことも大きかった。彼らが同じ町内会だったこともあったけど、こうした土壌から、世田谷が高級住宅街化した今もなお、大物から若手まで住居を構えるようになったという側面もある」(前出・芸能記者)

 さて、当時の赤坂は銀座の落ち着いたクラブというより、生バンドが入ってダンスを楽しむようなナイトクラブが多く、「コパカパーナ」や力道山殺傷事件のあった「ニューラテンクォーター」、ゴーゴークラブの「MUGEN」「ビブロス」といった店が人気となっており、石原裕次郎や小林旭が大勢を引き連れて銀座から流れてくることも多かったという。

「当時のスターの夜遊びは、個人が楽しむだけではなかった。彼らは主演した映画の裏方さんから大部屋俳優に至るまで、スタッフ全員を引き連れて飲むようなことも珍しくはなくて、『ラテンクォーター』なんかでは、夜中に石原裕次郎から『今から行くから、女の子もバンドも帰さないで開けといて』といった連絡がお店に入ることもしばしばだった」(同)

 飲み方も”本物のスター”だったようだが、そんな映画の黄金時代もほどなく斜陽に入り、代わってテレビが爆発的に普及し始める。いくつかのテレビ局ができたこともあって、注目を集め始めた街が「六本木」だ。繁華街としては不利な条件だったが、遊び人の若者たちが集まり、自然発生的に「六本木族」と呼ばれるようになった流れに、いち早く目をつけたのが60〜70年代にかけて、芸能界に”帝国”と呼ばれる一大勢力を作り上げた前述の渡辺晋率いる渡辺プロダクションである。

 ナベプロは六本木の「カフェ・レオス」や、飯倉の「キャンティ」に集まっていた六本木族と呼ばれる10代の若者たちを束ねて「六本木野獣会」と名付けたグループを組織した。この中にいたのが田辺靖雄、峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、ムッシュかまやつといった面々。野獣会自体は数年で自然消滅するが、会の結成後、ナベプロにスカウトされた田辺を筆頭に、彼らは次々と芸能界に入ってスターダムを駆け上がっていくことになる。「六本木」という街のイメージを、タレントの売り出しに効果的に使った初期の例といえるだろう。

 そんな野獣会を「田舎者の集まり」と冷めた目で見ていたのが、同時期に「キャンティ」の常連だった加賀まりこ。同店は川端康成や三島由紀夫といった文豪や、政財界の大物なども常連であり、若い遊び人集団のイメージだった野獣会以外にも、より大人の文化サロン的なグループも多く、お店に集う著名人たちの交流自体がさまざまな文化を生み出していった側面もある。実際、70年代には2代目オーナーの川添象郎がYMOや「キャンティ」の最年少常連だった荒井(現・松任谷)由実をプロデュースしており、こうした物語が、六本木の「芸能・文化の最先端の街」というイメージに大きく影響することになった。

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