――全国の若者たちにアツい歌を届けてきた若旦那と、地下社会のリアルをラップしてきたMC漢。前者は世田谷出身であり、後者は新宿をレペゼンするラッパーだが、もともと古くからの友人だという。そんな2人の音楽家は、東京のどんな風景を見てきたのだろうか? そして、いかにして自身の表現を見いだしたのか?
(写真/喜多村みか)
11月にリリースされたニュー・アルバム『WAKADANNA 3』の”絶対に諦めないよ、オレは!!”というサブ・タイトルに象徴されるように、熱く男臭いキャラクターで知られる若旦那(写真右)と、東京のアンダーグラウンドを冷徹な視線と高度なスキルで描くことでラップ・マニアから支持を得ているMC漢(写真左)。彼らのツーショットを観て、前者のファンは後者を「なんだろう、この怪しい人は」と訝しげに思い、後者のファンは前者を「どうせ、売れ線のアーティストだろう」と軽んじるかもしれない。しかし、若旦那とMC漢は、かつて、ストリートのつながりで出会い、以降、交流を深めてきたのだ。そして、両者の音楽性の違いは、この国の不良音楽の層の厚さの表れでもある。付き合いは長いが、公の場でのツーショットは初となる若旦那とMC漢の対談をお届けしよう。それは、東京の不良音楽20年史としても読めるだろう。
暴走族とチーマーがミックスされた90年代
――そもそも、お二人はどのようにして出会ったんですか?
MC漢(以下、漢) 俺が前に所属してたレーベル(Libra Records)の社長で、地元の先輩にあたる人が、新羅君【註:若旦那の本名】と同級生だったんですけど、その流れでハタチくらいのときに新宿のとあるマンションで会ったのかな。
若旦那(以下、若) ただ、世田谷出身の俺は、その同級生や川上【註:漢の本名】がいた新宿であんまり遊んでなくて。新宿は独特な街だよね。
漢 新宿のヤツらは、特に何かない限り干渉しないんですよね。俺が子どもの頃、都営団地が残ってたけど、そこの風呂がない家賃2万円の部屋に住んでる同級生がいても、いじめられたりしなかった。あと、友達の家に行ったらヤクザのお父さんから「遊んでくれてありがとな」って1万円を渡されることもあったけど、「お前んち、何やってんの?」って詮索する気にはなれなくて。
若 俺らの周りだと、やっぱり渋谷が文化の中心だったね。初めてセンター街に行ったのは13歳のときだから89年かな。当時、チーマーの全盛期だった。
漢 90年代に入るとテレビでもチーマーを取り上げていて、センター街を生中継したニュース番組でリアルにバットを持ったヤツが画面を横切ったりしましたよね(笑)。
若 俺の周りの不良たちは渋谷とか六本木に集まって、誰が強いのか力自慢してたね。当時、高校生たちが六本木の〈EROS〉とか〈R?Hall〉とかクラブを貸し切ってパーティをいっぱいやってたんだけど、それを潰したり守ったり拳の交わり合いを繰り返す中でみんな仲良くなって、DJとかラッパーとか不良が一緒にパーティをオーガナイズするようになったんだよ。
漢 お昼のパーティなのに、1回やったら50万円も100万円も主催者のポケットに入ったりしましたよね。俺の場合、中学のときは中野区の連中とつるんでて、区内のほぼすべての中学校をシメてたグループにいたんです。高校生のチームの集会に参加して、そこで絡んできた1コ上のヤツをシメたこともあったんだけど、そういう中で頭角を現すには命も惜しくないと思わないとダメだってことがわかってから、喧嘩とかに興味がなくなって。結局、仲間割れでグループは解散して、俺はラップを始めたんですよ。高校の頃は世田谷の学校の学園祭でラップしたり。そのときに、般若【註:78年生まれのラッパー。三軒茶屋を拠点とした妄走族の元メンバーでもある】とか今も生き残っている何人かのラッパーと出会いましたね。
若 ただ、俺がセンター街に出た頃のチーマーは、めちゃくちゃオシャレでカッコよかった。いろんな流行に敏感でね。