法と犯罪と司法から、我が国のウラ側が見えてくる!! 治安悪化の嘘を喝破する希代の法社会学者が語る、警察・検察行政のウラにひそむ真の"意図"──。
今月のニュース
「裁判員95%が『よい経験』」最高裁判所による裁判員経験者へのアンケート(平成25年度)では、「裁判員に選ばれる前の気持ち」として、33・8%が「やってみたい」、49・3%が「やりたくなかった」と回答。一方、「裁判員として裁判に参加した感想」としては、95・2%が「よい経験と感じた」と答えた。また、「審理内容のわかりやすさ」「評議における議論の充実度」などの設問に対しても、肯定的な回答が7~9割を占めている。
『これ一冊で裁判員制度がわかる』(中央公論新社)
当初の予定を変更して前号では、2014年7月に長崎県佐世保市で発生した高1女子同級生殺害事件について論じました。今回は、先送りにした前々号「裁判員制度導入で”得”をしたのは誰か?」の後編を記したいと思います。
前編では、刑事司法の観点から、裁判員制度導入によって三者三様に”損”をしたように思える司法界の三大プレイヤー(検察官・弁護士・裁判官)のうち、実は個人としての裁判官こそが最大の受益者ではないか、と指摘しました。司法の素人である市民の参加により、量刑相場に縛られない判決を下しやすくなったから、というのがその理由です。だからといってこの制度の誕生は、必ずしも裁判官の主導によるものではなく、多くの要因が複雑にからみ合った結果である、ということにも言及しました。
そこで今回は、より大きな文脈、すなわち歴史や政治、社会といった切り口から、裁判員制度の成立に直接的・間接的に影響を及ぼした要因について考察してみましょう。
まず、政治的要因について言及する前に、今回の裁判員制度導入の歴史的な位置づけを確認しておきたいと思います。日本において裁判員制度に類する制度の議論が初めて具体化したのは、1918年に成立した原敬内閣のとき。当時は、10年に社会主義者・幸徳秋水らが明治天皇暗殺を計画したとして検挙された大逆事件をはじめ、検察の横暴が目に余った時代であっただけに、多少なりとも彼らを牽制し、裁判の密室性を低める狙いがあったと考えられます。ただ、実際に陪審法が施行されたのは23年、次の高橋是清内閣のときでした。
当時の陪審制は、直接国税3円以上を納め、読み書きのできる30歳以上の男子から無作為に選ばれた12人の陪審員が、重大な刑事事件を対象として審理に参加するというもの。被告人には、通常の裁判か陪審員裁判かを選ぶ権利が与えられていました。
ところが43年、この陪審制は施行からわずか20年で停止されてしまう。陪審員裁判の希望者が徐々に減少し、30年代末にはほとんど利用されなくなっていたからです。その理由は定かではありませんが、陪審員裁判を選択した場合、被告人の費用負担が大きかったことや、陪審員裁判で負けると量刑が重くなるケースが多かったことなどから、次第に敬遠されるようになったのではないかと考えられる。いずれにせよ、欧米諸国では浸透していた陪審制が、なぜか日本に限っては定着しなかったのです。