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批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。

宇野常寛[批評家]×森田真功[ライター]

 社会現象となった『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』から1年、村上春樹の9年ぶりとなる短編集が刊行された。書きおろし長編ほどは話題にならないが、ここには、近年の村上春樹が抱える問題と、残された可能性と期待が、短いからこそ浮かび上がっている。

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『女のいない男たち』(文藝春秋)

森田 村上春樹の新刊『女のいない男たち』は、語るべきことも少ないし、それほど面白い小説だとも思いません。ただ、これがなぜ面白くないかを考えると、色々なことが見えてくる作品ではあるんじゃないかとは思います。

 表題作の中で解説されるように、「女のいない男たちになるのはとても簡単なことだ。ひとりの女性を深く愛し、それから彼女がどこかに去ってしまえばいいのだ」というのが今回の短編集のモチーフ。特定の異性が去る/自殺する/殺されるというモチーフは、村上春樹の過去の作品でも頻繁に用いられてきた。今までと大きく違うのは、中年以降の男性を主人公にしている点ですが、それはむしろ、今作がつまらない原因になっています。これは村上春樹という作家自身の限界でもあるし、彼に象徴される日本文学の限界でもある。

宇野 村上春樹は、『1Q84』【1】の『BOOK3』以降、明らかに迷走していると思う。『BOOK3』では、『BOOK1』と『BOOK2』についての言い訳──父になる/ならないという古いテーマから逃れられないのは仕方ないじゃないかということをずっと書いているわけですよね。前作の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』【2】(以下『多崎』)でも、そうした近代的な自意識としての男性と、それを成立させるための女性的な無意識、という構造から逃れられない自分の作品世界の限界についての言い訳をずっと繰り返している。そして『女のいない男たち』になると、いよいよその言い訳しか書いていないというのが僕の感想ですね。

森田 村上春樹の限界と現代日本文学の限界というのはパラレルです。これは石原慎太郎が登場した頃に起源があるのかもしれないけど、70年代後半に村上春樹と村上龍が出てきた頃に「文学自体がユースカルチャーとして機能する」ということにされた。当時は作家も若かったし時代ともマッチしていたけれど、今やそう機能していないのに、同じモチーフの焼き直しをやっていても駄目なんです。

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