SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
『野球のコツ 「下手な選手は上手く」なり、「弱いチームは強く」なる!』(竹書房新書)
今回は「チームメート」について書こうと思っていたのだが、はたと考えるに、私には「チームメート」と呼べる仲間が1人もいない。というよりも、私は、学校の体育の授業の中で暫定的に組織される分隊を除くと、そもそも、きちんとした「チーム」にかかわった経験を持っていない。
野球であれサッカーであれ、その種のボールゲームなり団体競技なりの部活動に所属した経験を持っている人間は、「チームスピリット」について、ある定見を持っている。すなわち、同じ目標に向かって苦労と栄光を分かち合う同輩としてのチームメートは、ほかのクラスメートや同僚とは一線を画する、特別な存在だということだ。
私自身は、スポーツが苦手だったわけではない。
中学校を卒業する段階ぐらいまでは、体育はむしろ得意な科目だった。駆けっこも速かったし、休み時間に校庭でやる野球では主力選手の1人だった。
でも、野球部には入らなかった。
サッカー部にもバレーボール部にも行かなかった。私が入部したのは、途中で退部した部活も含めればだが、陸上部と体操部と卓球部と水泳部だ。
どれも、個人競技の部活ばかりである。
これは、偶然だろうか?
要するに、私は、「チーム」が嫌いなのだろうか?
おそらく、然りだ。
答えは、問いが発される前から、すでにして明らかだ。私は、チームを好まない。チームの規律と、チームの熱血と、チームの暑苦しさを好まない。のみならず、チームの一員であることの不自由さを、かなりあからさまに嫌っている。だから、部室にこもる湿ったユニフォームの匂いに顔をそむけるのと同じように、私は、チームに所属する男たちが吐き出す、けだものくさい呼気に忌避感を抱くのだ。
振り返ってみるに、私が「チーム」というものに疑念を抱いた最初の体験は、小学校4年生の頃、少年野球のチームにゲスト参加した時点に遡る。
「そこ、声が出ていないぞ!」
と、試合前の練習で、いきなり監督に叱責された。
「は?」
私は、納得がいかなかった。
自分は、正規のメンバーではない。ユニフォームも支給されていないし、背番号も持っていない。試合のメンバーが足りないからというので、急遽駆り集められた急造の助っ人に過ぎない。そうだとも、僕は頼まれたから来てやっただけだ。とすれば、
「よく来てくれた」
と感謝されることはあっても、いきなり叱責されるいわれは無いはずだ。あのカントクという人は、アタマがどうかしてるんじゃないのか?
しかも、私はライトの守備位置にあったデカい水たまりを避けてポジションを取っていたために、ゴロを後逸し、フライを取り逃し、そのことでチームの連中にさんざんな罵声をあびた。
私は、釈然としなかった。