SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
『ニューヨーク・ストーリー: ルー・リード詩集』
去年の秋頃だったと思うのだが、ある雑誌の編集部から、少子化について意見を求められた。
私は、20年来の不況で企業が年功序列を放棄したことや、教育支出の増加が、若い共働きの夫婦に出産をためらわせている現状について熱弁を振るったのだが、先方の求めているコメントは、そういうことではなかった。編集部は、その種のマジな話は、きちんとした肩書きのある学者の口から聞きたいようだった。まあ、気持ちはわかる。私にしたところで、見知らぬ素人の経済学講義を聞きたいとは思わない。
彼らは「草食化」の話をさせたかったのだと思う。
となると、こっちもヘソを曲げる。冗談じゃない。「草食化」みたいなありがちな言説に乗っかって、若いヤツを叱りつけるテの安易なコメントを垂れ流したら、今度はこっちが若い読者に見限られる。
「オダジマもつまらない説教オヤジになったな」
と。見え見えの展開だ。
かくして、「草食化」を避けた話題をぐだぐだ並べた結果、コメントは、ボツになったのだが、以来、私のアタマの中では、「若い連中の恋愛難燃化傾向」についての考察が堂々巡りをしている次第だ。
私は、若い人たちが恋愛に対して積極的でなく見えることに「草食化」というラベルを貼るタイプの立論を疑っている。というのも、「草食化」は、「男がハンターで女が獲物」だという粗雑な図式をおよそ無反省に援用したメタファーであるのみならず、「肉食系」「草食系」という分類の中に「強者」「弱者」という、食物連鎖ピラミッド由来の優劣尺度を持ち込んでいる点も実に悪辣だからだ。結局、「草食化」論者の狙いは、「草食系」の男が、「肉食系」の男に比べて劣っている旨を宣伝するところにある。それもそのはず、「草食」なる言葉を通じて彼らが画策しているのは、恋愛関連消費(←ファッション・化粧品からスポーツカーに至る奢侈的かつ衒示的な消費)の拡大なのだ。
若い連中が自分を飾る消費に不熱心なのは、単にカネが無いからだ。まず、そこのところをわかってあげないといけない。つまり、最近の若い人たちが恋愛に消極的であることが事実だとしても、それは「草食」「肉食」といった生物学レベルの話ではない。もう少し、文化的な問題だ。あるいは、流行だとか風俗だとかいった方面の浮き沈みに過ぎない。別の言葉でいえば、恋愛は、この20年ほど、あんまりはやってないぞ、というそれだけの話なのだ。
現代の若者を「草食」と呼ぶ人々が比較の対象として想定しているのは、おそらく1990年代の若者で、たしかに、その頃のいわゆるバブルの日本は、恋愛至上主義の時代で、若い連中は誰もが色情狂じみていた。
当時、「最近の若い連中は色恋沙汰にしか興味がないのか?」という趣旨のコラムを書いた記憶がある。
私が青春時代を過ごした70~80年代にかけて、彼女がいないことは、恥でもなんでもなかった。私自身、恋人の不在を、特に気に病んだ記憶はない。その空気が変わったのは、80年代の半ば以降だ。具体的には、87~94年までオンエアされた『ねるとん紅鯨団』という恋人マッチング番組(企画は秋元康)が、「彼女いない歴◯◯年」という言い方で、単独行の若者を嘲笑するようになって以来だ。あの番組が高い視聴率を獲得するようになった後、20代の男女に恋人がいないことが、「恥」ないしは「失策」と見なされるようになったわけだ。