――2014年、宝塚歌劇団が創業100周年イヤーを迎えた。太平洋戦争や阪神淡路大震災などを乗り越え、八千草薫、黒木瞳、天海祐希ら多くの大物人気女優たちを輩出しながら、着実に拡大し続けてきた。そんな同歌劇団の魅力を、そのビジネス手腕とスキャンダルの歴史をひもときながら、追っていきたい。
『宝塚 GRAPH』(阪急コミュニケーションズ)
4月1日、宝塚歌劇団(以下、宝塚)が創業100周年を迎えた。
1914年に阪急電鉄の創始者・小林一三が結成した同劇団は、現在、年間約1300回の公演を行い、その観客動員数は全国の劇場を合わせて約250万人に上る。在籍する生徒【編註:宝塚では、劇団入団後も団員を生徒と呼ぶ】数は422名(14年4月1日現在)。観客動員数、所属タレント数共、日本最大級の芸能プロダクション・ジャニーズ事務所にも並ぶ規模なのだ。
そんな宝塚の舞台といえば、女性が演じる“男役”こそ、大きな見どころのひとつだろう。元タカラジェンヌとして知られる大地真央や真矢みき、天海祐希といった大物女優たちも、過去には男役トップスターとして活躍していた。小林一三が「歌舞伎の女形は、男の見る一番いい女(中略)宝塚歌劇団の男役も男以上に魅力のある男性」という言葉を残しているように、それはまさしく、女性の男性に対する願望を具現化したかのような世界なのだ。しかし、ゆえに、男性読者にはなじみのない向きも多いだろう。そこで本特集では、舞台の魅力を語ることは専門誌に譲り、そのビジネス手腕にスポットを当てつつ、100年の隆盛の背景にあるスキャンダルや芸能界における地位など、多角的に宝塚を読み解いてみたい。
阪急の“道楽娘”が稼ぎ頭に変わるまで
宝塚の歴史は、箕面有馬電気軌道(現・阪急宝塚線)の終点である宝塚新温泉(後のファミリーランド)の“アトラクションのひとつ”として、少女歌劇が導入されたことにさかのぼる。元スポニチ記者で、35年以上にわたり宝塚を取材し続ける演劇評論家・薮下哲司氏によれば、「もとは、創業者・小林一三さんの“趣味”のようなものでした。舞台観劇の好きだった小林さんが、阪急宝塚線沿線に人を呼び込むオリジナルコンテンツとして発案したことが始まりだった」という。
阪急電鉄は、設立した1907年当時、関西の私鉄として後発の会社。同じく大阪─神戸間を走る阪神電鉄に、主要地はすでに押さえられていた。そこで小林は、田んぼだらけだった阪急線の終点に、アミューズメント施設を構えて乗客を呼び込もうと考えたのだ。しかし当初は、宝塚単独で収益を得られるとは、考えられていなかった。
「昔は、宝塚の舞台を観るためにはまず、ファミリーランドに入園料を払って入場し、観劇用チケットも別途必要となりました。そのため、来場者がもともと宝塚目的で来たのか、入園してたまたま観に入ったのか、わからなかったんです。宝塚観劇のチケットが単独発売されたのは、現在の宝塚大劇場へと改築した93年のこと。これによってランド単独のチケットは売れなくなり、ようやく、宝塚の人気が証明されることとなりました。エンタテインメント事業として、収益化に会社が力を入れ始めたのも、この頃からではないでしょうか」(同)
現在、阪急阪神ホールディングスが発表する、宝塚関連事業を中心とした、エンタテインメント・コミュニケーション事業の年間総合営業収益はおよそ1086億円(12年度)。グループの中でも、メイン事業である都市交通事業(約1936億円)、不動産事業(約1967億円)に次ぐ3本柱のひとつとなっている。しかし、つい20年ほど前まで、宝塚は阪急電鉄社内で“道楽娘”と呼ばれる不良債権事業部だったのだ。現理事長・小林公一氏は07年、「ゲーテ」(幻冬舎)のインタビューでこう語っている。
「最大の衝撃は1988年、阪急ブレーブスの売却でした。(中略)当時、阪急電鉄の社内では、ブレーブスが“道楽息子”、宝塚歌劇団が“道楽娘”と呼ばれていました。それほど赤字計上しても許されるという構図ができあがっていたんです」
このブレーブス売却の判断に危機を感じた宝塚の事業部は、その収益化に本腰を入れることになる。90年には、グループ会社、阪急コミュニケーションズを設立。宝塚発行の機関雑誌だった「歌劇」「宝塚GRAPH」のほか、劇場公演ごとに発行する写真集「ル・サンク」の発行など、出版物の強化が図られる。さらに、93年の宝塚大劇場改築を機に公式ショップ「キャトルレーヴ」を新設し、グッズ展開も本格化。公演ごとに新商品を出し、人気を集めるようになった。そんな中、最も大きな転機となったのが、95年に起きた阪神淡路大震災だ。
「震災時は、さすがに地元の人たちは観劇どころではなかったし、他県からの客足も遠のいてしまいました。そこで、自宅でも楽しめるようにと、それまで撮りためてきた舞台の映像をソフトにして売り始めたんです。これが驚くほど売れ、瞬く間に同事業部の大きな収益源となりました」(前出・薮下氏)