photo Machida Ko
小説家なんてものはいい加減な連中で、十分にものを考えないで、刎頸の友、なんて書くが、もちろんそんなこと、すなわち、こいつにだったら首をはねられても後悔しない、とお互いに思い合うような友、ということが現実にあるわけがなく、私と折鴨ちゃんは間違いなく友だが、もちろんそこまでの友ではない。
いくら折鴨ちゃんと雖も、いきなり首を刎ねてきたら、そりゃあ、怒るというか、なんていうんだろう、やっぱ怖いっていうか、はっきり言って、気がちがった、と思うと思う。
なので刎頸の友ではないが、一応は友である。なので、普通であれば、いくら失敗作とはいえ、自分が丹精した土手焼を勝手にいじくられたら怒るだろうが、折鴨ちゃんのことなので、たいして腹も立たなかった。
いわば、土手焼いじくりの友、である。
しかし、そこには折鴨ちゃんを、しょせんは関東戎夷、と、見下すような眼差しが私のなかにあるのもまた事実である。
折鴨ちゃんは土手焼を串から外し、また、これを円形の鍋に移した。かかることができるのは、もちろん本場・本式の土手焼を知らぬからであって、知っておれば、けっしてこんなことはできない。
だから私は、それを見て、「ほほ、無邪気な」と笑うことができる。
こうしたことをする意識のなかに、なにかこう私に対する、或いは、大坂の魂に対する、対抗的で挑戦的な、「なにが、大坂の魂だ。なにが、土手焼だ。所詮は、牛すじの味噌煮込みじゃないか。そんなものはこうやればいいんだよ、ほうらほらほらほら、円形の鍋にいれてやる。ほうらほらほらほら、蒟蒻や大根や葱もいれてやる。七色唐辛子もいれてやる。どうだ、口惜しいだろう」といった意識があれば、こっちだって腹を立てて、「生醤油をがぶ飲みしているような東戎になにがわかる。いっぺん、どたまかち割ったろか、アホンダラ」くらいのことは言うに違いない。
しかし、いまも言うように折鴨ちゃんにはそんな意識は微塵もない。
子供のように無邪気な気持ちで味見をし、円形の鍋に移して、私も一緒においしく食べられるように、と心から願って味付けをし直したのだ。
それを、そんな無垢な心の持ち主を無知な関東戎夷だからという理由で責めることができるだろうか。僕にはできぬ。
できるとしたらそいつは人種差別主義者だろう。
しかも、彼は彼なりに考えて、僕のやろうとしていたことを重視して、葱も蒟蒻もいれていない。