批評家・宇野常寛が主宰するインディーズ・カルチャー誌「PLANETS」とサイゾーによる、カルチャー批評対談──。
普段は、月々の話題コンテンツを取り上げて評している本連載だが、今回はちょっと趣向を変えて特別企画でお届け。本連載のホストであるところの宇野氏が、現在の日本のメディア状況を踏まえた文化論を展開する──。
若きジョブズが表紙を飾る「WIRED」95年8月号。
今回は月末に「文化時評アーカイブス」の今年度版【1】が出るということで、久しぶりに全体的な文化状況やメディア論について話したいと思います。
僕は「サイゾー」の創刊時からの読者なのだけど、創刊(1999年)から15年経って、「文化」というものの位置付けが全然違ってきているという実感が僕にはある。一般的にそれはインターネットの拡大による変化だと思われているのだけど、僕が感じているのはもっと質的な変化、イデオロギー的な変化がこの国の文化空間にはあったと思っています。
例えば15年前に小林弘人さん【2】は日本版「WIRED」【3】の延長線上での男性誌として、初期「サイゾー」を作った。いま思えば当時の「WIRED」が象徴していたのは、アメリカ西海岸的なIT技術やコンピュータカルチャーによって、ポスト戦後的な新しいホワイトカラーのスタンダードができることへの期待だった。しかし、今現在、それはまだあまり実現していないように思う。少なくとも当時小林さんが考えていたものとは、だいぶ異なるものになっているんじゃないか。
それは言い換えれば、団塊ジュニアは新しい日本を、政治的にも文化的にも作れなかったということでもあると思う。団塊ジュニアという世代は、頭の中身はもう戦後日本社会は戻って来ないとわかってる人が多い。しかし、身体の部分、労働環境や家族形態はまだまだ戦後的なスタイルに捉われていて、その結果彼らの仕事はなかなか戦後的なものから離陸できない。
例えば僕はよく音楽市場を例に出すのだけど、団塊ジュニアの音楽ファンはいまだにマスメディア主導のタイアップで広まるベタなJポップと、メタで洗練されたマイナーなロックや現代音楽があるという構造を信じている。だけど、そんなものは現在の音楽市場のほんの一部でしかない。現代日本の音楽市場の主力と言っていいアイドルやV系、アニメソングやボーカロイドといったキャラクター・ミュージック群を最初から排除している。ただし、渋谷系にリスペクトのあるボカロPだけは名誉白人的に認める、みたいなね(笑)。
これって単にオタク的なものを差別している、というのではなくてもっと根が深い問題だと思う。この期に及んでもまだ「全体」というものが存在して、メインストリームというものが機能していて、メジャーとマイナーが存在すると思っている人がアラフォー世代にまでたくさんいる、ってことなんですよ。小さなタコツボが乱立しているだけの世界が訪れていると理屈ではわかっていても、世界観自体を切り替えることができない。
インターネットの使い方にもそれはよく現れていて、ひと言で言うと団塊ジュニアはインターネットを使って“第二のテレビ”を作ろうとしてきたのだと思う。