──仏教徒が多い日本では、たとえば数十年前と比べて同性愛に寛容になったように思える。また、キリスト教徒が多い欧米社会は性に対してよりオープンなイメージがある一方、イスラム世界では性について厳格に見える。そもそも三大宗教は同性愛を容認しているのか? それとも禁じているのか? それぞれの教義や戒律における扱われ方と、実態に迫りたい。
2010年、前教皇ベネディクト16世が枢機卿在任時に司祭の児童性的虐待事件を揉み消した疑惑をニューヨーク・タイムズが報じた後、ロンドンで教皇の退位を要求する抗議デモが行われた。(c)Loz Pycock
2002年、アメリカのボストン大司教区の元神父が、35年以上にわたり青少年に性的虐待をしていた事実が発覚した。04年には、1950年から02年までにアメリカ・カトリック教会の神父4450人が1万1000件の性的虐待をした疑いが報じられ、その後、ヨーロッパでも同様の事例が次から次へと判明。こうした行いをした人間を異動させるだけで問題を処理してきた各地域のカトリック教会が批判されるのみならず、カトリック教会の総本山であるバチカンの責任も問われた。そして10年には、教皇ベネディクト16世(当時)が枢機卿時代に神父の性的虐待を知りながら秘匿した疑いがあるとして、アメリカの弁護士が教皇を証人として出廷させるよう裁判所に要請することもあった。同性愛をタブー視しているはずのカトリック教会の内部で、なぜこのような騒動が起きたのだろうか? そこで、まずはキリスト教の教義で性愛がどのようにとらえられているのか考えてみたい。同志社大学神学部の小原克博教授はこう話す。
「カトリックの教義では、男女の性は子どもをつくるために神から与えられたものなので、生殖の目的以外の性行為を禁じています。結婚前の男女、あるいは同性間のセックスはすべて、快楽のためだけに行われると考えるため、原則的に許されません。聖職者に至っては、純粋な神への愛を誓うために生涯独身を貫かなくてはならない。また、イエスの12人の弟子がすべて男性だったことを理由に、女性は聖職者になれないので、カトリック教会は男性中心の組織といえますが、修道院内では古くより男性同士の性的な関係はあったようです。もちろん、このことをバチカンは表向きには認めていませんが」
ところが、プロテスタントの登場で、キリスト教における性愛の認識は変化していく。16世紀の宗教改革の時代、カトリックの修道僧だったマルチン・ルターが自ら結婚することで、その後、プロテスタント教会における聖職者の結婚が可能になったのだ。そして、プロテスタント教会は人権思想とも結びつき、女性の聖職者を認めたりする流れも生んだのである。さらに時代を経ると、聖職者が同性愛者であることをカミングアウトする動きまで現れた。
「性的な指向そのものを神から与えられたものとして尊重しようとする動きが、60~70年代以降のアメリカで生まれてきました。その担い手たちは、結婚してよき家庭を築くべきという、キリスト教の伝統的家族観に挑戦し、同性婚も認めようとする流れをもたらしたのですが、80年代に入ると福音派と呼ばれるプロテスタントの保守派を中心に揺り戻しが起き、『結婚は男と女のものであるべき』という意見が叫ばれるようになりました。このため、同性愛は今もアメリカを二分する政治的イシューであり、大統領選では争点のひとつになってきました」(小原氏)
原則として聖職者の結婚が許されているプロテスタントに対して、カトリックではいまだに聖職者の独身制が敷かれているわけだが、このことと冒頭で述べた児童性的虐待事件に因果関係はあるのか?
「カトリック聖職者の生涯独身という条件は、かつてとは異なり現代の信者にはかなり特殊に見えるようで、実際、聖職者になろうとする人の数も減っています。そんななか、聖職者の道に進むのは、どちらかというと異性に関心がない同性愛傾向の人が多くなっていたともいわれます。そして、言いなりになりやすい年齢の青少年が一部の聖職者のターゲットにされたのではないでしょうか。こうした事実の多くは長らく隠蔽されており、インターネットの普及によって、被害者が声をあげやすくなった今、ようやく性をめぐる暗部が暴かれつつあるのかもしれません」(同)
そうだとしたら、カトリック教会は構造的な問題を抱えているとしかいいようがないが、一連の児童への性的虐待事件が取り沙汰された後も、バチカンは、男性中心的で、また、同性愛者に対して排他的な姿勢を変えようとはしていない。