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友達リクエストの時代【第13回】

遠く離れていても、「地元」の「仲間」が永遠である理由

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SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。

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『アメリカン・グラフィティ』(ジェネオン・ユニバーサル)

 この数年、機会を得て地方都市を訪れる度に、その変貌の大きさと変化のスピードに驚かされる。

 私の世代の者が少年時代から心の中にあたためてきていた「田舎」のイメージは、この20年ほどの間に完全に過去のものになっている。それほど、地方の変化は著しい。

 引き比べて東京は、変わっていない。湾岸のあたりに高層ビルが増えたり、都心の一部で大掛かりな再開発が進んだことを除けば、基本的な景観は、この30年、さしたる変化を経ていない。であるからして、東京に拠点を置いている人間の多くは、自分たちの生活の足元が崩れつつある実感を持っていない。別の言い方をするなら、東京の人間は、本人は時流の最先端の中で暮らしているつもりでいるにもかかわらず、その実、時代の変化から取り残されているのである。

 その変化とは、乱暴に言えば、「グローバリズム」だ。我々は、好むと好まざるとにかかわらず、この先、グローバル資本主義の波に洗われる浜辺の砂粒のごとき存在になるはずなのだ。

 高速道路を降りてクルマを走らせてみればわかる。地方の国道沿いの景観は、日本中どこを走っても、びっくりするほど似ている。というよりも、バイパス道路の両サイドに並ぶ看板は、東北でも北関東でも中部日本でも南九州でも、どれもこれもまったく同じチェーン店の、区別のつかないロゴで描かれているのだ。

 モールも同じだ。ちょっとした地方都市の近郊には、必ず巨大なイオンモールが建設されている。で、そのほぼ完全に入れ替え可能な巨大ショッピングモールは、互いにマップを共有しており、入居するテナントも同じなら棚に並んでいる商品の構成から値段までそっくり同一なのである。もちろん、飲食店も同じだ。

 ということは、関東近県の都市圏であれ、中国地方の山間部であれ、モールの中を歩いている限り、人々の生活に違いはないわけで、そういうふうに消費生活に相違が介在していない以上、人々の生活意識もまた日本中で完全に平準化していることになる。

 そして、その平準化されたロードサイドの景観は、私が1990年代のはじめにカリフォルニアのいくつかの地方都市をクルマで走った時に見た景色と、ほとんど区別がつかないほどそっくりだったりする。

 具体的にいうと、東京や大阪クラスの巨大都市を除いた日本の「田舎」の風景は、モータリゼーションとグローバル資本主義の洗礼を受けた世界中の地方都市と、外観上、区別がつかなくなっているわけで、ということはつまり、21世紀的な世界の潮流から取り残されているのは、むしろ徒歩圏で暮らしている東京の人間だったりするということだ。

 いや、社会学の話をしているのではない。

 私が、昨今流行りのショッピングモール社会論を引用しているのは、それが、単に国民の消費性向や地方都市の人口構成の問題ではなくて、我々の人生観そのものに深く関わる変化だと考えているからだ。

『アメリカン・グラフィティ』という映画がある。

 私の年齢の人間には懐かしい映画だ。のみならず、世界中に散らばっている同世代の人間にとっても、同じように大切な映画だ。

 というのも、この物語の中で描かれている「青春の喪失」は、全世界のあらゆる地方都市の人間にとっても多かれ少なかれ共有されているものだったからだ。

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