SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
『コワ~いツイッターの話』(宝島社)
半月ほど前、ツイッターを眺めていて、ちょっと面白い論争にでくわした。
「面白い論争」というのは、悪趣味な言い方だ。というのも、ネット上の論争において、第三者であるわれら観客が注目しているのは、議論の帰結や結論の行方ではなくて、論争の当事者が余儀なく晒すことになる怒りや憎しみだからだ。ということはつまり、私どもネット雀の野次馬が面白がって喝采を送っているのは「他人の恥」そのものであるわけだ。我がことながら、品のない観戦マナーではないか。でも、悪趣味であれなんであれ、面白いのだから仕方がない。
ツイッターを舞台にしたバトルは、いつでも同じ展開をたどる。発火して2時間後には、真っ赤に燃え上がり、半日後には収束している。結論は出ない。着地もしない。ただただ一本調子で白熱し、爆発し、空中分解する。でなければ、燃料切れで自然鎮火する。
論争は、勝利者も敗北者も生まれない。双方が別々に勝利宣言をして、自分のタコツボに帰って行くだけだ。観客は、適当に掛け声をかけながら、勝敗や採点よりも、もっぱら競技者の顔面が打撲で腫れ上がっていく様子を鑑賞して楽しむ。
私は、参加していない。途中で口をはさもうかとも思ったのだが、自分の考えをうまく説明できる自信がなかったので、結局は黙っていた。というよりも、正直に言うなら、仲裁者がとばっちりを受けて殴られる展開を恐れたのかもしれない。
議論は、「仲間」という言葉をきっかけに、論争に発展した。もっとも、私自身、全過程をウォッチングしていたわけではない。実際問題として、ツイッター上の議論を第三者が公平に観察するのは、不可能に近い。なぜなら、フォローしていない人間同士が投げかけ合うリプライ(相手を指定した呼びかけや回答)は、第三者のタイムライン(ツイッター上の各自の表示領域のこと)には反映されないからだ。
そんなわけなので、私は、議論の途中から、自分の目に見える部分だけを眺めていたに過ぎないということを断った上で、以下、当日の論争を再現してみる。