SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
『コミュ力』
個人的な話をすると、私は田舎に住んだことがない。
生まれてこのかた、50数年の人生のほぼまるごとを、東京の場末のゴミゴミした町で暮らしてきた。
一度だけ、20代の頃に、大阪で一人暮らしをしたことがあるのだが、その折に、ほんの半年ほど住んでいたのも、大阪の中心地から地下鉄で20分ほどのところにある町中のアパートだった。
だからなのかどうなのか、私は、人口密度の低い土地が苦手だ。海も山も、観光で通りかかる分には好きだし、広い空の下にいると、気分がせいせいすることも確かなのだが、そういう場所に3日もいると、もう帰りたくなる。この時の気持ちは、恐怖感に近い。あるいは、広所恐怖みたいなものが若干介在しているのかもしれない。とにかく、都会の何が好きだというわけでもないのだが、人の気配が希薄な環境の中に投げ込まれると、どういうものなのか、急激な寂寥感に襲われて逃げ出したくなるのだ。
電車の窓から、谷間の集落の小さな屋根だとか、雪国の夜の底に光っている一軒家の窓を見ると、
「ああ、こういうところにはオレは住めない」
と、つくづく思う。
もっとも、人混みが大好きだというわけでもない。
休みの日に渋谷あたりに出かけると、2時間でオーバーフローの状態になる。特に重労働をしたというわけでもないのに、大勢の人間が集まる空間を歩きまわると、それだけで、人疲れしてしまうのだ。
要するに、対人的な設定についての要求が細かいのだと思う。こういう性質を「繊細」というふうに表現して積極的に評価することも可能ではある。が、最近はあまりそういう言い方はしてもらえない。
昨今の風潮では、この種の対人的な適応能力の低さは「コミュ障」(←「コミュニケーション障害」の略らしい)という言葉で切り捨てられる。
むごい言い方だと思う。
が、この言葉は、無慈悲な決めつけである一方で、非常に使用頻度の高い、強力な差別用語になっている。
で、若い人たちは、自らのコミュニケーション能力(これにも「コミュ力」というイヤな略語がある。「こみゅか」ではない「こみゅりょく」と読む。読みにくさといい、発音のしにくさといい、実に劣悪な用語だと思うのだが、それでも、とてもよく使われている)を高めるべく、セミナーに通ったり、ビジネス書籍を買い集めたりしている。
バカな話だ。が、バカな話ではあっても、「コミュ力万能思想」は、この国をすっかり覆い尽くしている。
原因は、おそらく、長らく続いた20年来の不況と、その間に定着した就活ミッションの異様な過酷さに由来しているのだと思う。
そんなこんなで、意識の高い学生は、自分が気さくで、フレンドリーで、友だちの多い、快活で、ポジティブで、機転の効く、輝くような若者であるというふうに見せかけるべく多大な努力を払っている。
なんと哀れな話ではないか。彼らは、そういう島耕作の若手時代みたいな青年でないと企業に評価されないと思い込まされているのだ。
今回は、コミュ力の話をする。