『開拓当時の富岡町』(撮影者不詳/1900年/富岡町歴史民俗資料館蔵)
1869年、蝦夷地を北海道と改称して同地の経営に着手した明治新政府は、北海道開拓使の長官東久世通禧に「北海道は皇国の北門、最要衝の地なり。今般開拓被仰候に付ては深く聖旨を奉体し撫育の道を尽し、教化を広め風俗を致すこと可き事」と指示している。
北海道開拓は生活に窮する士族――とりわけ戊辰戦争で敗北した東北諸藩の士族――を開拓民として送り込むと同時に、北方の警備に当たらせるための国家プロジェクトとして遂行された。その司令塔となった開拓使は写真師たちを雇って現地の撮影に従事させている。「北海道開拓写真」と呼ばれる初期写真が今日までまとまった数残されたのは、それらが開拓の進捗状況を報告するための公的な記録として大規模に撮影され、管理されてきたからだろう。写真が中央政府からの目の延長として機能したわけだ。近代日本の出発点において新たに編入された北海道の風景は、写真と印刷という近代テクノロジーを介して広く国民の目にも触れることになる。