SNS隆盛の昨今、「承認」や「リクエスト」なるメールを経て、我々はたやすくつながるようになった。だが、ちょっと待て。それってホントの友だちか? ネットワーク時代に問う、有厚無厚な人間関係――。
『大人の友情』(朝日文庫)
「男女間に友情はあるのか」
古くて新しい設問だ。
ちなみに、私は、取り扱ったことがない。
このテのお話は、「女優・ナカグロ・エッセイスト」みたいな人たちのためのネタであって、コラムニストが扱うべきテーマではないと考えているからだ。
でなくても、「男女間の友情」は、「恋バナ」のオマケ以上のものではない。論旨や結論をどうこう言う以前に、「男女間の友情について語り合う男女」というテーブルのセッティングが気持ち悪すぎる。「友情」という言葉を使いながら、若い男女は、互いの距離を探っている。なんという露骨な前交尾行動だろうか。しかも、この見え透いたやりとりを恥ずかしいと思う人間は、見せかけの友情にすらたどりつけない。
ところで、今、「……語り合う男女」と書いたが、男同士は、この話題を語らないのだろうか。
はい、語りません。
「これさ、要するに序盤で手を出すタイミングを逸すると、あとあと展開が難しくなるぞって話だろ?」
「うむ」
以上で当件は終わりだ。違う意見を持っている者がいたとしても、特段に結論を争わねばならない話題でもない。1人ひとりが、自分の中でいくつかの顔を思い浮かべて、静かに黙っていれば良い話だ。
ところがこの話題は、意外なことに、男たちが初老期にさしかかった時点で、唐突によみがえる。それも、奇妙な現実味を帯びたカタチで、だ。
「どういうことだ?」
「つまり、セックスに関する野心が減退すると友情が育つ余地が生まれるということか?」
そんなにややこしい話をしているのではない。あるいはそういうこともあるのかもしれないが、私が言っているのはもっと卑近な例だ。つまり、なんというのか、素直に口に出しにくい話なのだが、男が50歳を過ぎると、友だちなんて、嫁さんぐらいしか見当たらないよ、と、そういうことだ。
あまりにもミもフタもない話で、一同憮然とせざるを得なかった展開ではあるのだが、現実に、結論は、そこのところに落着したのである。
「確かに、マトモに話ができる相手って、嫁さんぐらいしかいないかもな」
「だろ?」
「最悪だな」
「だよな。嫁さんが大好きだっていうんならまだしも、特にそういうわけでもないしなあ」
「っていうか、嫁さんが好きだった時代には、ツルんで歩く友だちもいたわけでさ」
「うーむ」
淋しい話だ。若い人たちには、ぞっとする話に聞こえるかもしれない。でも、これは事実なのだ。