――「美術」という視覚造形の観点から「宗教と性」についてまとめよ、というお題をいただいたわけだが、欧米において美術という分野と関連の深い宗教といえば、何をおいてもまずはキリスト教であろう。さて「キリスト教において、性はどのように扱われてきたか?」と問われれば、「肉欲は精神を堕落させる悪の誘惑であるとして、徹底的にタブー視されてきた」と答えざるを得ない。
『ヌードの美術史』(美術出版社)
事の起こりはアダムとエヴァの物語に遡る。エデンの園でなんの不自由もなく暮らしていた2人は、神から禁じられていた知恵の木の実を食べてしまう。すると2人は自分たちが裸であることに気づき、やおら恥ずかしくなってイチジクの葉で局部を覆った。つまり、それまで彼らは裸で暮らしてはいても、互いを性欲の対象として認識することはなく、したがって男女の交わりもなかったということだ(彼らが男女の交わりを持つのは、楽園を追放された後のことである)。
アダムとエヴァが冒した神に対する裏切り、および神に対する不誠実という罪、これが人間の「原罪」とされ、「その原罪は男女の交わりを通じて後々まで子孫に受け継がれていく」という考え方も生まれた(「原罪DNA遺伝説」とでも呼ぶべきだろうか)。かくして生殖行為には常に罪の意識がまとわりつくことになり、裸体そのものの視覚化も、肉欲や劣情を刺激するものとしてタブー視されるに至る。
話の筋道としては非常にわかりやすいだろうが、ここで「え?」と思われた方もいるのではないだろうか。「西洋美術といえば、ヌードじゃね?」と。
確かに、西洋美術史を彩る多くの名画・名作には、男女を問わずヌード像が非常に多い。しかし、それらの大半は、キリスト教誕生以前の古代ギリシャ・ローマ時代の信仰体系(ギリシャ・ローマ神話)に由来する神々や主題の表現なのだ。古代ギリシャ世界で発展した人間讃歌に基づく理想化された美しく晴朗な裸体表現は、キリスト教がローマ帝国の国教となった4世紀以降は、徐々に影を潜めていく。
聖書に書いてあれば裸体を描いてもOK
では、キリスト教美術において裸体イメージが完全に姿を消してしまったのかといえば、実はそうではない。たとえば、エデンの園のアダムとエヴァのように、「裸であること」が聖書に明確に記述されている場合は、裸体の視覚造形化が許された。アダムとエヴァは、中世を通じて数多くの写本や壁画、壁面レリーフなどで、知恵の木の実と共に描写されるケースが多い。
聖書には裸であるとは記述されてはいないが、最後の審判図では天国に召される人々と地獄に落とされる人々が裸体で表現されるようになる(余談だが、地獄図に関しては洋の東西を問わず、悪魔や獄卒に折檻されて責め苦に喘ぐ人々が素っ裸で表されている点も興味深い。地獄に裸はつきものなのだろうか)。