いよいよ明日、12月16日に行われる衆議院議員総選挙。さらに、明日より配信される「サイゾー」1月号のカバー特集は「タブーな宗教」……と、いうことで、3年ぶりの総選挙を前に、今一度宗教と政治について考えるべく、歴史学者であり、姫路獨協大学講師の濱田浩一郎氏に、“幻の宗教規制法案”について寄稿していただいた──。
『創価公明党との決別』(人間の科学新社)
宗教と政治は、昔から洋の東西を問わず、きわめて密接な関係を持ち続けてきた。ある時は、激しく対立し、そしてある時は、親密に結びつきつつ……。日本史において、対立の代表的な例を挙げれば、織田信長と本願寺(浄土真宗の本山)との激烈な死闘があるだろう。長きにわたり、織田軍に頑強な抵抗をした本願寺教団であるが、最後には政治権力に事実上の屈服をした。
江戸時代になると、徳川幕府による寺院諸法度(仏教教団に対して定めた法)や寺請制度(檀家制度)が整備・普及し、宗教が持つエネルギーを政治権力が封じ込めた。しかし、江戸時代を待つまでもなく、鎮護国家(国家権力が仏教を利用して内政の安定を図った政策。または、仏教には国家を守護する力があるとする思想)との言葉があるように、古代から政治は宗教を利用し、宗教は政治に依存してきた。鋭い対立をすることは稀だったのである。
異端の宗派は弾圧を耐え忍ぶしかなかった。特に不受不施派(法華系統)は、政治権力からの施しを拒否し、奉仕もしなかったため、幕府によって、隠れキリシタンと同じような弾圧を受けた。近代以降では、ひとのみち教・大本教・創価教育学会(創価学会の前身。以下、創価学会)などの新興宗教が、天皇の権威を脅かしかねないとして、不敬罪とされ、弾圧を受ける。今をときめく創価学会であるが、敗戦前は、不遇の時を過ごしていたのだ。
創価学会が国政に進出した理由とは?
創価学会の初代会長の牧口常三郎と戸田城聖(二代目会長)は、日蓮(鎌倉時代の僧侶。法華宗の宗祖)を最高の存在と考え、神道を批判したことから、逮捕・投獄された。牧口と戸田は、獄中においても転向(思想的立場を変えること)を拒絶し、牧口は44年11月、栄養失調のため、この世を去った。同志が続々と転向するなか、二人は意地と思想を貫いたのだ。戦後、出獄した戸田は、それまでの借りを返すかのように、布教活動に尽力。51年には学会員は3000人となっていた。55年には、選挙に進出。区会議員33名、市議会議員19名を輩出した。三代目会長・池田大作の時には、創価学会を支持母体とする政治団体・公明党(前身は公明政治連盟)が誕生する。
池田が国政を視野に入れた活動を展開したのは、戸田の影響が大きいようだ。戸田は生前、会員の前で次のように語っていた。「いずれは我々も選挙で戦わねばならぬ時が来る。この中から、誰かが立候補して、みんなで応援して、我々の力で勝たねばならない。さもないと、広宣流布は永久に出来ないのだ」と。広宣流布とは、「法華経の教えを広く流布させ、その法華経の教えによって、この世に仏国土を建設していこう」との考えである。
池田は戸田の教えを受け継ぎ「大聖人様(日蓮)の大生命哲学を根底にして、慈悲の政治を実現することが、すなわち王仏冥合の達成になり、広宣流布の究極となります。そのための政治であり、私どもの選挙であります」として、「天下取り」に乗り出す。そして「昭和五十二年以降、公明党の単独内閣」を実現するため、猛烈な布教活動を実行に移すのである。田中角栄(元総理大臣)は池田大作を「法華経を持ったヒトラー」と評したと言うが、未だ天下は取れていない。
が、羽田孜内閣の時(94年)には、公明党から運輸大臣・郵政大臣・建設大臣・総務庁長官・科学技術庁長官・環境庁長官を出している(その後も、ご存知のように時の与党と連立を組み、政権の中枢に食い込む事が度々あった)。94年、公明党は「公明新党」と「公明」に分党(98年に公明党再結成)。公明新党は、小沢一郎が幹事長を務めた新進党(自民党とは敵対)に合流する。公明党は数年間、野党として、与党・自民党と対立することになる。