――症状は落ち着いているのにもかかわらず、退院することができず、一生を精神病院の中で終える──。精神病患者のそのような不幸な状況を生み出し続けてきた背景には、この国独自の精神保健政策の歴史があった。
山梨県立北病院では、病床を3分の2までに減らしたというが、やはり病院の経営面との兼ね合いが問題視されたという。
「社会的入院」という言葉をご存じだろうか。これは、治療の必要がなくなったにもかかわらず、退院後の受け入れ先や就労先といった生活条件が整わないために長期入院を続けている状態のことで、そのほとんどが精神科の患者であるといわれている。2002年、厚生労働省が「新障害者プラン」の中で示した数値によれば、精神病院における社会的入院者の数は約7万2000人とされている。だが、この数字は根拠の乏しさが指摘されており、実際は15万人、あるいは20万人以上に上るとの見解すらある。
「日本における精神科病床数は、09年の時点で、約35万床。人数では、31万3000人が入院しています。これに対し、全世界の精神科病床数は推定185万床だといわれており、日本は全世界の5分の1の精神科病床を保有していることになるのです。さらに、日本は精神科の患者の平均入院日数が約310日にも及び、欧米諸国が1週間から2週間程度なのに比較して、異常に長い入院が常態化しています」
『精神医療に葬られた人びと 潜入ルポ 社会的入院』(光文社新書)などの著作を持つ、ノンフィクション作家の織田淳太郎氏はそう語る。織田氏は、08年、うつ病を偽って、とある地方の精神病院に潜入。そこで見たのは、驚くべき光景だった。
「ある人は一日中テレビの前で座っていて、ある人はテーブルに顔を埋めてうつ伏している。話してみると普通の人なのに、30年~40年、ずっと精神病院で暮らしているという。一体ここは何を治療する場所なのだろうと思いました」(織田氏)
外出は週1回で看護師の監視付き。所持金は会計室で管理され、買い物は看護師の引率の下、院内の売店でプリペイドカードで行う。「男子開放病棟」と称されていたが、開放とは名ばかりの、実質は完全な閉鎖病棟だった。
織田氏はそこであるひとりの患者と親しくなって、詳しく話を聞くことになった。67年、16歳の時に統合失調症(当時の呼称は精神分裂病)を発症して精神病院に収容されたその患者は、何度か退院のチャンスはあったものの、そのたびに体調を崩し、入院は長期化。やがて帰る家もなくなった彼は、退院をあきらめるようになった。織田氏は、自身の見聞や、その患者の話をもとに前述の『精神医療に葬られた人びと』や、その患者、時東一郎氏の手記を構成した『精神病棟40年』(宝島社)といった本で、社会的入院の問題を追及している。
今となっては表面化しつつあるものの、これまでの日本において、「精神病院」と「精神病患者」という存在は、まさに触れてはいけない“タブー”であったと織田氏は語る。そこに入った人間は、家族の間でも、もとからいなかった人間のように扱われてしまう時代が長く続いたことが、その原因なのだ。
「治療が目的のはずの精神病院が、収容のための施設となり、患者の人生を台無しにしてしまう。そういった状況を、長くこの国は放置してきました」(織田氏)
この「精神病院」という精神疾患の患者を対象とした病院の呼称は、公にはすでに過去のものとなっている。現在は、06年の「精神病院の用語の整理等のための関係法律の一部を改正する法律」により「精神科病院」と「科」の一文字をつけて呼びならわすことになっているのだが、言い換えることで、そこにまとわりつく負のイメージが解消したのだろうか? 元朝日新聞記者で、『精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本』(岩波書店)などの著書がある大熊一夫氏は語る。
「精神病院という存在が日本の中でタブーと化しているから、目くらましとして『精神科病院』と呼称を変えただけで、私に言わせれば、問題はそんなことで解消できるような生易しい問題ではありません。本人の意思に反して患者を監禁収容してきた精神病院の歴史はそれで消えるわけではないし、それは過去の話でもないのです」
そもそも、日本における精神病患者の処遇の歴史をさかのぼれば、1900年に制定された「精神病者監護法」に行き着く。これは、精神病患者の親族に、患者の監護を義務付けたもので、患者を家の中に設置した監護部屋に入れる、いわゆる「座敷牢」の設置を国家が公認したものだった。
この精神病者監護法がようやく廃止されたのは、戦後の1950年。代わって「精神衛生法」が制定され、私宅監置が廃止となり、都道府県立精神病院の設置が義務付けられた。しかし、敗戦間もない日本には、十分な数の精神病院を国庫から設立する余裕がなく、その多くを民間に頼ることになった。そこで大きな役割を果たしたのが、60年の医療金融公庫の設立だと、大熊氏は語る。
「この医療金融公庫は、日本医師会会長などを歴任した武見太郎の旗振りによって設立されました。武見は総理大臣を歴任した吉田茂とも親戚で、自民党とはつながりが深く、医療政策に絶大な発言力がありました。この武見こそ、精神病院“収容ビジネス”路線を開いた人物です。彼の悲願は、開業医のネットワークの頂点に医師会立総合病院を作ること。それで金融公庫がほしかったのです。ところが、公庫は、私立精神病院大増産に火をつけることに。医療金融公庫は政府全額出資金を元手に私立病院の新設や改築に融資をするもので、年利6分5厘、25年償還という甘い融資条件。さらに精神病院においては、精神科医はほかの診療科の3分の1、看護職も3分の2しか配置しなくて構わない、という厚生省(当時)の通知もあったことから、精神病院の設立には、金儲けをたくらむオーナーが続々参入。その結果、59年には約8万床であった日本の精神病床数は、その後、年に1万床以上という勢いで急増していったのです。精神病院としては、生活保護受給者や、自傷他害の恐れがあるとして入院費を国が負担する措置入院の患者を入れておけば、決して入院費のとりはぐれもなく、長く入れておくほど利益が上がりますから」(大熊氏)
もちろんこうした甘い汁に吸いついたのは医療関係者のみではない。前出の織田氏は、あらゆる業種が“精神病ビジネス”に参入したと指摘する。
「国の施策として患者を確保できるだけでなく、低金利の優遇措置まで受けられるということで、医療関係者のみならず、畜産業者やラブホテル関係者など、まったく無関係の企業や人物が精神病院の経営に乗り出していったそうです。こうして、地価の安い山間部を中心に、続々と巨大精神病院が設立されていきました」(織田氏)
そうした精神病院の巨大化の行きつく果てに起こった事件が、84年に発覚した宇都宮病院事件だ。
900床近い病床を有していたこの巨大精神病院では、首都圏一帯から引き取り手のない患者を集め、少ない職員の下、患者を恐怖支配によって管理し、安価な労働力として使役。同病院では、反抗する患者を木刀で殴るなどの凄惨な暴行が日常的に行われており、回診の時、院長はゴルフクラブを手に患者の前を歩き、反抗的な患者がいるとそのクラブで殴りつけていたという。そして、83年には看護職員、および看護職員の扱いを受けていた入院患者の暴行による2件の死亡事件が発生。事件発覚までの3年間で、院内死した患者は200人を超えていた。
宇都宮病院の事件が明るみに出ることで、日本の精神医療体制は国際的な非難を受け、87年には「精神衛生法」が「精神保健法」に改正された。患者本人の同意に基づく任意入院制度や、入院時の権利告知、入院中の処遇に不当性がないかを審査する制度などが作られたが……。
「現在、宇都宮病院のような暴力的な病院が存在するかというと、それはさすがに影を潜めつつあるでしょう。しかし、患者を二重三重の鍵でガチガチに管理して、非人間的な扱いをしているところは依然として存在します。隔離処置や身体拘束は、年々増え続けているのです」(織田氏)