真に弱者の立場に立った「神話」をいかに作るか
開沼博氏の著書『「フクシマ」論』。
荻上 なるほど。今の対立図式なら、「わかった、まずは検査をし、実態を把握しよう」というのが通常の科学事実に基づいた合意形成のための議論だと思うんですが、そうではなく、ある種の同調圧力みたいなものが議論を席巻してしまっていると。それが「安全寄り」になるか「危険寄り」になるかは、各自のバイアスや、偶発的なカスケードの性質によってしまう。しかし、そうした立ち位置の相互監視になるような状況でも、耳障りの悪い情報の発信を控えない「応答する科学者」の姿は尊敬に値しますし応援しますが、著書で苦言を呈されていた知識人のコミットメントの「その後」のあり方については、どう思われますか?
開沼 『「フクシマ」論』の補章で、森鴎外の「かのように」という言葉を出しました。これは要するに、近代が、あたかも天皇を神である「かのように」扱う、というような「あえて作る神話」を前提にしつつ成立してきたことを示す言葉といえるでしょう。そのような、いわば「前近代の残余」ともいえるものに支えられた構造が、戦後ないしポスト近代などといわれる時代にも繰り返し立ち現れていて、先ほどの例のように3・11後もまさに現在進行形で「かのように」が形成されている。