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宇野常寛の批評のブルーオーシャン 第17回

「終わりなき日常」は終わったか

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『リトル・ピープルの時代』

 先月末に発売になった『リトル・ピープルの時代』(幻冬舎)のほかにもう1冊、この夏に本を出す。僕がもう5年も出し続けている雑誌「PLANETS」の緊急特別増刊号だ。題して「夏休みの終わりに」──新著の準備にめどがついてから約1カ月半、もてるリソースの大半をつぎこんで作成した、本当に本当の緊急増刊。そんな同誌には、僕が行った年長世代の論客へのロングインタビューが3本掲載されている。インタビューというより、ほぼ対談だ。宮台真司、小熊英二、中沢新一──この「震災」に際して僕がじっくり話したいと思った三氏だ。

 そのうち宮台氏とは、この震災と原発事故の文学的な意味付けについて論じた。震災が何かを変えたというよりは、既存の構造を強化し、潮流を加速させたという考えにおいて僕と宮台氏は一致している。「終わりなき日常」という氏の言葉は、決して平和な消費社会それ自体を指したものではない。ペンタゴンに飛行機が突っ込もうが、原発が爆発しようが、それが自意識の問題としてしか共有されない社会を指している。古い言葉を使えば、近代的な「政治と文学」の関係が壊れている状態を指した言葉であり、その定義上、「終わりようがない」のだ。

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