──ラッパーが綴った小説たち。そこには、ラップとはまた異なる言語表現があるのだろうか? 音楽レーベルHEADZを主宰し、『絶対安全文芸批評』『文学拡張マニュアル』の著者でもある批評家・佐々木敦が、それらの深奥に鋭い視点で迫る。
今回、「ラッパーが書いた小説」というテーマでいくつか作品を読みましたが、明確に浮上したのは、80年代からテン年代に至る「私性」の変遷です。
まずは、いとうせいこうの『ノーライフキング』【1】。これは、彼が80年代の日本語ラップ黎明期にラッパーとして活躍していた頃の小説です。テレビ・ゲームを参照した虚構性をめぐる物語なので、現在ではヴァーチャル・リアリティ的な感覚の先駆のようにいわれています。日本語ラップのリリックは自分の人生を語るものが多いですが、彼は当時言葉巧みに自分というものに対し距離感を導入してラップしていたし、さらにラッパーという顔とは別のアルター・エゴで小説を書いていたように思いますね。
80年代から活動するECD(デビューは90年)の『失点イン・ザ・パーク』【2】と 『暮らしの手帖』(09年)は、基本的には後で紹介するZEEBRAやANARCHYらの作品と同じく、自らの半生をテーマにした内容。ただ、自身のアル中時代の回想を書いていても、これらは織田作之助など日本の私小説の伝統につながるような、やや破滅型の文学として読むことができます。それは、日常をスナップショット的に綴る彼自身のラップとも異なり、きっちりと小説的な文体で描かれている。しかしその視点は、いとうせいこうの場合と同じく、豊かさを背景に価値観が多様になり始めた80年代の「客観的な私性」から来るものです。