長野県知事時代に「脱記者クラブ宣言」を行い、記者クラブの激しい反対を受けながらも会見をオープン化した実績を持つ田中康夫氏に、それに伴う弊害はなかったのか聞いた。
──まず、01年の「脱記者クラブ」の経緯を教えてください。
田中康夫氏。
田中康夫(以下、田) 私は「記者」という言葉を使わず、すべての人は「表現者」だとし、「脱記者クラブ宣言」を掲げました。記者クラブを解体する代わりに、新しく「表現道場」(後に「表現センター」と改称)をつくり、LANを引くなどするための取材環境を整える予算を議会に出しました。けれど、某メディアのとある古株記者の根回しにより、予算は県議会で否決されてしまった。彼にとって予算が通るということは、脱記者クラブを認めることになるんでしょうね。だから最後まで、会見室には机が置いてあるだけだった。
表現センターには誰でも入れる。市民運動家や私を貶めるためにやってくる人も、小中学生もやって来た。彼らの質問に、私はちゃんと答えた。新聞記者たちからするとこれも、メンツを著しく損なわれたと感じたらしい。でもIT時代は誰もが発信者であるし、誰もが受け手であるというのが私の考え。