マイケル・ジャクソンに対しては、個人的になんの思い入れもないです。だから思い出すことも特にない。強いて言えば、80年代に「とんねるず」がやっていたマイケルネタくらい。
木梨憲武がマイケルで、石橋貴明が猿のバブルスになるコント。あれはおもしろかったですけどね。そもそも、「サイゾー」の読者って、世代的にマイケルに思い入れあるんですかね?
マイケルの訃報を聞いて嘆きかなしむ日本人を見ていると、彼の死への"過剰反応ぶり"の理由がさっぱりわからなくて違和感を覚えるんですよ。だって、今ほど死がリアルではないといわれる時代はないですよね。路上で見ず知らずの人間を殺しておいて、その理由が「死刑になってみたかった」というのは、自分の死をリアルに感じたことがないからでしょう。なにも犯人じゃなくても、誰もがそういうことを平気で口にしている。そういう人たちが、なぜかマイケルの死には過剰に反応する。
同じことを、プロレスの三沢光晴が亡くなったときも感じていました。どうせプロレスなんかで人は死なないって、きっと皆思っていたはずですよ。プロレスはアングル(筋書き)に沿って技を受けて、それをまた返してという流れでやる仕事なんだと。彼らがいくら体を酷使して自分を痛めつけてやっていても、総合格闘技とは違うから、ガチじゃないから、フェイクだから、という受けとめ方で終わっちゃうわけです。
てっきりフィクションだと高をくくっていたものの中に、生身の死んでいく体があったことに驚き、涙を流されても、僕にはそのことがよく理解できないんです。死んで泣くだけの思い入れがあるのなら、生きていたときに試合に行けばよかったじゃないですか。告別のイベントに2万何千人も並んで、死んでからDVD買って泣きながら見るくらいなら、生きているうちにチケット買えばよかったじゃないですか。
マイケルだって、彼のやることは全部ネタだというくらいにとらえられていたはずです。彼がどんな奇抜なことをしても、一般の受け止め方としてはまるでフィクションのような、一つのネタ程度だったはずです。何をしてもワイドショーネタにしかならなかった。それを見て喜んでいた人たちが、なんで死んだ途端に、本気で悲しんで涙をするのかっていうね。
絶望すべき誰かの死は、実はそこかしこに転がっている気がしてならないんです。
だって人はいつだっていっぱい死んでいるでしょう。イラクやアフガニスタンで何千人、何万人死んでも、そういうことには、日本人は誰も嘆き悲しまない。興味がないからスルーして生きているでしょう。
航空自衛隊がC130輸送機で国連や多国籍軍の物資や人員を輸送する行為に対して違憲判決が昨年出て、日本のイラク派遣が「違憲」だと判断されたわけですが、その周りにだってたくさんの死が存在していますよ。それに対して、日本人は実に鈍感です。
マイケルや三沢の死を嘆いている人に、イラクで何人死んだかを聞いてみても、まず間違いなく知らないはずです。どこかの国の自分たちと関係ない、まったくリアルでない話ととらえて生きているくせに、なんで、それまでフィクションやネタとしてとられていたマイケルや三沢の死だけが、特権的なまでにリアルになってしまうのか。それが不思議で仕方ない。
要は、参加しやすいというのが理由なんでしょう。自分たちとなんの関係もないマイケルや三沢の死に過剰に反応して、涙を流して悲しむというのは、そこに参加しやすい場所があるから行くだけのことでしょう。イラク派兵なんて聞くと、政治的で思想的な問題を考えないとならなくなるから、どうしても面倒くさい。基本、面倒なことにはかかわりたくない。でも三沢やマイケルなら「ああ悲しい」「素晴らしかった」で簡単に参加できる。携帯で小説を読むような軽いノリで、簡単にイベントに参加ができるわけです。
だから、僕だって、世界中で起きている人の死の大半をスルーして生きている以上、マイケル・ジャクソンにも三沢光晴にも、僕がなんの感情も抱かないということがせめてもの節度ですね。
(談)
おおつか・えいじ
1958年生まれ。80年代は、オタク文化の先駆けともいえる漫画作品の編集に携わる。その後は漫画の原作や小説の執筆をする一方で、サブカルチャーから政治、経済など、幅広い評論活動を展開。