四川省・成都のチベット人街は、観光地の目の前にもかかわらず武装警官が交通を封鎖。町中は、常に民兵が巡回している。
先頃、国内から「You Tube」へのアクセスが禁止された中国。昨年3月のチベット騒乱時に、治安当局者がチベット人を暴行していた証拠となる映像が出回ったからではないかとみられている。いまだ伝えられない、そんな騒乱の真相、そして、1959年のラサ蜂起から50周年に当たる今年3月10日に現地で繰り広げられた光景とは──。日本の新聞社が続々脱落する中、中国当局が厳戒態勢を敷くチベットへ、フリージャーナリストが潜入取材を敢行した。
昨年3月14日、中国・チベット自治区ラサでチベット人による"暴動"が起こった。商店や自動車が放火されたり、人々が投石をしたりする様子がテレビで報じられたのを覚えている読者も少なくないだろう。この"暴動"はチベット自治区だけではなく四川省や青海省など、もともとチベットの国土だった全地域に飛び火した。いわゆる「チベット騒乱」である。
しかしこれは、「独立(中国風にいえば"国家の分裂")を狙ったチベット人による暴力」という単純なものではない。このとき、世界各国のテレビ局が放映した映像のほとんどは、実は中国当局が流したものだったといわれている。
私は昨年8月、チベット亡命政府があるインドのダラムサラを訪れ、ラサでのデモに参加した後にインドに亡命したチベット人のクンサン・ソナム氏(38)に会った。
「私は3月14日に(暴力のない)平和的デモに参加しましたが、そこで中国軍がお坊さん1人とおばあさん1人をナイフで刺し殺したんです。それでチベット人が怒って石を投げ始めました。デモ隊は、『チベットに独立を』『ダライ・ラマに長寿を』『同胞よ蜂起せよ』などとスローガンを叫びながら200~300人に膨れ上がっていきました。そこに中国軍が発砲し、こちらも石を投げて応戦しましたが、中国軍は、装甲車の小さい窓から銃を乱射して、チベット人を殺していったんです。ラサには、ふだんからチベット人と同じ服を着てチベット語をしゃべるチベット人そっくりの漢人がいますが、彼らは中国のスパイ。この日、ラサで店を襲ったり火をつけたり車をひっくり返したりしたのは、彼らがチベット人の服を着てやったことなんです」
成都方面からリタンに向かう途中には、こうした検問が何重にも設置され、身分証明書チェックなどが行われていた。
ソナム氏によると、チベット人は確かに投石などを行ったが、放火や破壊活動は、中国当局による自作自演だというのだ。
実は、この事件4日前の3月10日から、ラサのデプン寺の僧侶たちによるデモも行われていたという。1959年に中国がラサを侵攻した際、チベット民衆が蜂起し、中国軍によって多数が殺された。3月10日は、その民衆蜂起記念日。チベット人にとって決して忘れることのできない悲しみの記念日である。
「しかし、お寺は中国当局によって封鎖されてしまったので、私たちには中の様子が全くわかりませんでした。そこで、私たちは少し遅れて14日からデモを始めたのです」(ソナム氏)
このラサでの騒乱以降、チベット全土でデモが発生。死者数は少なくとも200人以上、負傷者は1000人を超え、今でも約6000人が行方不明だという。こうした情報は、現地チベット人からインドのチベット亡命政府やNGOを経由して、全世界に報じられた。しかし、中国当局はチベット全域からメディア関係者も含めたすべての外国人を締め出した上、国際電話やインターネットを遮断してしまったのだ。
ラサ蜂起から50周年 チベットへの潜入を敢行
中国がチベットへの進駐を開始したのは1950年。その後、チベット各地を占領して支配力を強めていくが、59年、ラサで民衆が蜂起して中国側と衝突する。しかし中国軍によって鎮圧され、ダライ・ラマ14世はインドへ亡命。同年、3月28日に中国政府はチベット中央政府の解散を宣言して、完全にチベットを征服した。
それから50周年に当たる今年の3月10日は、チベット人たちにとって昨年以上に重要な節目である。そのことは中国政府も重々承知しており、昨年の"反省"も踏まえて、今年はチベット正月の2月下旬からチベット自治区はもちろん、四川・青海・甘粛各省内にあるチベット族自治州を外国人立ち入り禁止とした上、軍や武装警察を投入して警戒に当たった。2月末に四川省のアバ・チベット族自治州で僧侶が抗議の焼身自殺をする事件が起きると、さらに大量の軍・武装警察を投入した。
私は、3月10日のチベット内部を取材すべく、2月のうちに中国のビザとチベット入境許可証を取得していた。しかし中国当局が、入境許可を取り消したため、旅行会社から一方的にすべての手配をキャンセルされてしまった。そのため、まずは四川省の省都である成都に入り、そこから無許可でチベットに潜入することにした。
成都には、三国志に登場する劉備玄徳と諸葛孔明を祀る廟と資料館がある。「武候祠」と呼ばれる観光名所だ。このすぐ前が、チベット人街になっている。成都市内ではほとんどチベット人を見かけることはないが、この一帯だけは逆にチベット人だらけ。チベットの民芸品や仏具を販売する土産物店が多数並ぶ。
3月5日、成都に到着した私は、真っ先にこのチベット人街を訪ねた。すると、通り一本をすべてふさぐほどの台数の警察車両が並び、銃を手にした武装警官が警戒に当たっていた。明らかに私服警官とわかる漢人もうろついている。民芸品店で店番をしていたチベット人女性に「警官、多すぎない?」と声をかけてみた。すると女性は、「シッ!」と言って人さし指を口に当て、それ以上話をしようとはしなかった。本来は観光客が頻繁に行き来するエリアなのに、厳重警戒のせいか、私以外に外国人の姿はない。チベット人たちは外国人と接触しただけで警察の尋問を受けるため、この状態では話しかけようがない。
ダライ・ラマ7世の出生地でもある四川省のカンゼ・チベット族自治州リタン。今も中国当局の厳しい管理下にあり、メインストリートを武装警察を乗せたトラックが行き来する。
ここ成都でチベットへの潜入方法を模索しながら、合間を見て何度もこのチベット人街に通ったが、あるとき、写真を撮っているところを警官に呼び止められた。
「何をしているのか。今、撮った写真を見せろ」
写真を見せて、警官や軍隊を撮影していないことを示し、「日本から来た観光客だ」と説明する。そのやりとりをしている間に、周囲から十数人もの警官が集まり、私を取り囲んだ。
「成都では、ここ以外ならどこでも自由に撮影していいが、ここはダメだ。これ以上先に行ってはいけない」
すぐに放免されたものの、結局、チベット人街から追い出されてしまった。
「成都のチベット人街で暴動が起きたという話は聞いたことがない。しかし去年の騒乱のときも、あのチベット人街は軍隊が封鎖していた」(地元の漢人)
デモや暴動が起こっていない場所でさえ、このありさまなのだ。後で知ったのだが、地元旅行会社によると、このとき四川省の旅行会社には、同省内における外国人の団体旅行の手配をすべて自粛するようにと、中国当局から通達がなされていた。観光地であるチベット人街に外国人の姿がまったくなかったのは、そのためだ。
当然、チベットでは、さらに厳しい警戒が予想される。
死刑のリスクを背負い 「現状を世界に伝えて」
漢人のドライバーを雇い、自動車で成都を発ったのは、警官隊に取り囲まれた翌日のことだ。目的地は、成都の西、約600kmにある、四川省のカンゼ・チベット族自治州リタン(理塘)県だ。途中、州政府があるダルツェンド(中国名=康定)を過ぎると、検問が厳しくなってくる。検問突破の方法は詳しく書けないが、いくつかの幸運も重なって、どうにかすべての検問を突破。成都を出発した翌日の昼過ぎ、無事にリタンに入ることができた。
リタンは四方を山に囲まれた平地にある小さな町で、標高は4000m。ダライ・ラマ7世の出生地であり、ダライ・ラマ3世建立のリタン寺もある。また、チベット人の中でも特に勇敢とされる騎馬民族の「カンパ」が今も多く住む。中国軍によるチベット侵攻の際には、カンパたちがゲリラ戦で対抗し、激しい戦闘が繰り広げられた。その際、リタン寺も中国軍によって破壊されている。そんなリタンでは、07年以降、たびたび大規模なデモが行われている。
3月10日にリタン寺で開かれた問答大会には、一般のチベット人も大集合。マニ車を回しながら僧侶の問答に見入っていた。
町にはパトカーがひっきりなしに行き交い、抜き身の銃剣を携えた武装警官が巡回していた。町のすべてのガソリンスタンドには武装警官が常駐し、一般市民の往来はあるものの、商店の半分近くがシャッターを下ろしていた。漢人の店は暴動による破壊を恐れて閉店しているようで、表の通りにも漢人の姿はほとんどない。成都のチベット人街とは比較にならないほどの緊張状態だ。
現地のチベット人に話を聞くと、リタンでは警察が毎晩、ホテルや民宿のすべての部屋を巡回して、外国人や不審な宿泊客がいないかチェックしているという。これではうかつに宿も取れない。そこで、チベット人に「日本から取材に来たジャーナリストだ」と身分を明かし、匿ってくれるように頼み込んだ。
「それが警察にバレたら、懲役20年だ。普段なら1万元(約15万円)もらったって、そんなことはしないが、こうして知り合ったのだから、協力する。リタンの状況を、しっかり世界に伝えてほしい」
あるチベット人が、そう言って私の申し出を受け入れてくれた。外国人である私は、たとえ中国警察に捕まってもせいぜい国外退去で済むだろう。しかし成都を発つ前、日本の新聞社の中国支局記者から、「外国人ジャーナリストを匿ったのが漢人なら懲役程度だが、チベット人であれば死刑か、そうでなくとも拷問死になりかねない」と聞かされていた。私自身よりも、チベット人のほうがはるかに重いリスクを背負っているのだ。何があっても、警察に捕まることだけは避けなければならない。
私がリタンに着いた直後、成都からリタンを目指していた日本のA新聞の記者から連絡が入った。
「リタンの手前の町で警察に捕まったため、警察車両に先導されて成都に戻った。B紙の記者もリタンを目指していたが、ダルツェンドを過ぎたところで捕まって成都に送り返された」
時事通信社が、リタンの北にあるカンゼ(甘孜)県に潜入中との情報があったが、ほかの日本メディアはことごとく失敗。C・D紙はチベット僧を伴ってリタンを目指したが、やはり途中の町で警察に捕まった。チベット僧は逮捕されてしまったらしく、新聞記者たちは僧侶と引き離されて警察車両で成都に送られたという。その後、チベット僧がどうなったかは不明だ。このときリタンにいた外国人ジャーナリストは、どうやら私一人だけだったようだ。
しかし、警察に捕まるわけにいかないため、日中も極力外出はせず、1日に1~2度、ヒマワリの種を齧りながら中国人のふりをして軽く町を散策する程度のことしかできない。警官隊の前を通ると、周囲の人通りが少ないため、警官たちの視線が一斉にこちらを向く。道端には監視カメラも設置されている。カメラを取り出すことさえはばかられる状態だ。
最も充実した取材ができたのは、夜、民家でチベット人たちと語らっていたときだった。彼らの家には、いつも近所のチベット人たちが遊びにくるため、毎回違う顔ぶれと話すことができた。しかし誰と話をしても、チベットの現状に関する話の内容は、みな同じだ。
「チベットの独立にはこだわっていない。ただ、ダライ・ラマにチベットへ帰ってきてほしいだけだ。ダライ・ラマがチベットにいないことが、本当に悲しい」(30代男性)
もう一人、リタンのチベット人たちが帰還を渇望する人物がいる。02年4月に成都で起こった爆弾爆発事件に関与したとして逮捕され死刑判決を受けた、リタン出身の活仏テンジン・デレク師だ(チベットには、ダライ・ラマのほかにも何人もの活仏=仏の転生者とされる高僧がいる)。
「私たちは、デレクの罪は99%ウソだと思っている。昨年の4月には、『テンジン・デレクの罪はウソだ』と発言したリタン寺の高僧アドゥロボを含めて4人の僧侶が逮捕された」(30代男性)
デレク師への死刑判決は国際的非難を浴び、中国当局はデレク師を終身刑へと減刑した。しかし、いまだ拘留されたままだ。
リタンのチベット人民家にあったダライ・ラマ14世の肖像。警察に見つかると没収されるため、ふだんはスカーフで覆って隠している。
「今年の2月にも、デレクの写真を掲げたお坊さんが逮捕された。それに怒ったチベット人が、その翌日に数百人規模の抗議デモを行って、さらに17人が逮捕された。みんな警官や兵士にひどく殴られた。逮捕された人のうち2人は、もう死んだらしい。去年の3月(いわゆる「チベット騒乱」)以降、逮捕された人々は誰一人として帰ってきていない」(60代男性)
リタンでは(チベットのほかの地域でも同じだが)、ダライ・ラマやデレク師の写真を飾ることも禁じられている。もし警察に写真が見つかれば没収される。どのチベット人の家でも写真を隠しているが、彼らは私の訪問の際、とてもうれしそうに写真を見せてくれた。私がダライ・ラマやデレク師の写真に手を合わせたり、私の携帯電話に隠してあるダライ・ラマの写真を見たりすると、彼らの表情はさらにうれしそうにほころぶ。
成都に戻った後、知人の漢人にリタンでの話を聞かせても、彼らにはチベット人のこうした信仰の篤さは理解できないようだった。
「ダライ・ラマが帰ってきたとしても、それによって生活が楽になるわけでもないだろう。それどころか、『ダライ・ラマ万歳』と言えば逮捕されて生活できなくなるのに、なぜデモをするのか。いくら独立にこだわらないと言われても、(中国政府が分裂主義者と呼ぶ)ダライ・ラマの名前を彼らが叫ぶのは、我々にしてみれば、独立を主張しているのと同じことだ」(成都在住の漢人)
当局の厳戒態勢の中で事件は起きた──
民衆蜂起記念日の3月10日。昼前からリタン寺で盛大な問答大会が開催された。チベット僧が手を打ち鳴らしながら大声で議論するもので、一般のチベット人も見物に駆けつけた。寺の周辺や内部には警察とわかる人物や車両はなく、町の厳戒態勢がウソのようだ。
しかし、やはり事件は起こった。問答大会の後、私は部屋に戻って休んでいたが、夕方になって外から帰ってきたチベット人が「さっきメインストリートでお坊さんが1人か2人、逮捕された」と知らせてくれた。チベット僧が中心街で移動しながらビラまきを行ったところ、10メートルも歩かないうちに警察に取り押さえられたという。別のチベット人が、「ビラはすべて回収されてしまったが、『フリーチベット』『チベットは独立国だ』といったことが書かれていた」と教えてくれたが、僧侶の逮捕は一瞬のことで、彼も実際に現場を見たわけではないようだ。
町に出てみると、メインストリートの出入り口で自動車の出入りが完全封鎖。封鎖エリア内の交差点ごとに柵と車止めが置かれ、小銃を構えた武装警官が20人近く立ちふさがって、バリケードを作っていた。徒歩での通行はできるが、人通りはほとんどない。完全に戒厳令状態になってしまった。
警察によるホテルの巡回回数も増えた。そのため、同じ民家に連日匿われているのは危険だというチベット人の助言に従い、この日以降は毎日、潜伏場所を変えることになった。ある晩は、民家のガレージに隠れた。巡回の際、ガレージのシャッター越しにパトカーのランプを見つめながら、警察が遠ざかっていくまで息を殺した。何も悪いことはしていないのだが、ここでは逃亡中の犯罪者のような生活だ。チベット人たちの表情にも、不安の色が濃くなってきた。
「3月10日は警戒が厳しいから、14日にデモをやろうと思っていた。しかしこの状態では、すぐに捕まってしまう。逮捕されるのは覚悟の上だが、これではデモにならない」(30代のチベット人男性)
3月14日は、昨年の騒乱から1周年に当たる。10日の僧侶逮捕以降の緊張は13日にいったん緩み、自動車の通行も解禁された。しかし14日には再び、戒厳令状態に逆戻り。いかに勇敢なカンパたちでも、ここまで厳重に警戒されては手も足も出ないようだった。しかも中国当局は13日夜、リタンの各戸の家長を呼び出し、「デモは絶対にいけない。もし参加した場合、政府からの手当などすべての福祉を打ち切り、参加者が住む村の村長とその地区の学校長を解職する。参加者が公務員であれば、その所属部署の課長もクビにする。家族も拘束する」などと恫喝していた。
私のリタン潜伏も、すでに1週間を超えていた。長引けば長引くほど、警察に捕まる危険は増す。チベット人を危険に巻き込まないためには、このあたりが引き際のようにも思えた。14日を過ぎてもデモがないことを確認してから、大急ぎでリタンを脱出することにした。別れ際に、世話になったチベット人に順番に挨拶を交わし、お礼に数百元(5000円前後)を手渡そうとしたが、彼らは受け取ろうとしない。最終的に受け取るつもりでもまずは遠慮するのがチベット人の習慣だが、今は押し問答をしているヒマもない。無理やり手に握らせたり、家の中のダライ・ラマの写真の前にお供えしたりして、リタンを後にした。
「ここで見たことを、しっかり記事にして伝えてほしい。そしてまたリタンに遊びに来てくれ」
山の上から、青空の下に広がるリタンの町を振り返った。ここからはもう武装警察の姿も見えない。しかし、この美しい眺めと裏腹に、チベットは今も"巨大な牢獄"として中国当局の弾圧下に置かれている。
(西条五郎)