──「サライ」(小学館)などのオヤジ雑誌で頻繁に取り上げられるのみならず、2月と3月に放送されたNHKドラマスペシャル『白洲次郎』において、人気イケメン俳優・伊勢谷友介が主演を務めるなど、不況にあえぐ日本が"白洲次郎ブーム"に沸いている。「日本一カッコいい男」「占領を背負った男」「マッカーサーに啖呵を切った男」----最大限の賛辞をもってメディアに持ち上げられる、この昭和の男の真の姿とは?
「日本一カッコいい男」「従順ならざる唯一の日本人」などなど、近年、称賛を浴びまくっているイケメンオヤジがいる。敗戦直後、吉田茂の側近として、流暢な英語と正論を武器にGHQと堂々と渡り合い、その後、中央政財界ににらみを利かせたとされる男──白洲次郎だ。華麗な経歴と人脈、たぐいまれなルックスとセンス、誰彼構わず直言する気概と度胸、車とゴルフと酒を愛するダンディズム。各誌で「次郎カッコいい伝説」満載の特集が組まれ、関連書籍はベストセラーとなり、一般公開されている旧白洲邸「武相荘」には見学ツアー客が大挙する。没後20年以上がたった今、白洲次郎は、中高年層を中心にカリスマ的な人気を誇っているのだ。
そもそも「白洲次郎ブーム」の始まりは、98年頃。80〜90年代、彼の妻で、古美術や能に造詣の深い随筆家・白洲正子のブームがあり、そのあとを受けた格好だ。現在は05〜06年頃に再燃した第2次ブームに当たる。ここ数年は、松平定知の司会で人気を博した『その時歴史が動いた』(06年4月放送)や伊勢谷友介主演のドラマスペシャル『白洲次郎』(09年2・3月放送)でNHKが取り上げたように、「サライ」「和樂」(共に小学館)といった中高年向け雑誌だけでなく、一般誌やテレビもブームに便乗している。Tシャツにジーンズ姿で足を組むダンディーな彼の写真を、誰しも一度は目にしたことがあるのではないか?
では、そもそも白洲次郎とはいかなる人物だったのか? 1902年(明治35年)、兵庫県芦屋の富豪の家に生まれた彼は、神戸一中卒業後、英国ケンブリッジ大学へ留学、完璧な英語と紳士道を習得した。帰国して複数の職を経験する中で、後のワンマン宰相・吉田茂と昵懇になり、敗戦後、吉田の右腕として、GHQとの折衝や通商産業省(現・経済産業省)の創設などに尽力。51年、東北電力会長として財界に転身し、以後、複数の企業の役員を務め、85年に死去した。そんな派手な経歴もさることながら、彼の生涯は、数々の快男児的エピソードによって彩られている。代表的なものを挙げると、
【1】185㎝の長身で、日本人離れした容姿だった
【2】ゴルフの最高ハンディキャップは「2」
【3】天皇からのクリスマスプレゼントをマッカーサーに届ける使者となったが、ぞんざいに扱われたことに憤慨し、マッカーサーを叱り飛ばした
【4】米国の占領下にあって、持ち前の語学力と直言で孤軍奮闘し、GHQをして「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめた
【5】どんな状況であっても、自らの「プリンシプル」(原則)を貫いた
といったところ。90年代末以降、メディアがこうした逸話を繰り返し伝えたことで、今や彼は、歴史上の偉人と肩を並べるまでの存在になりつつある。
ただ、こう褒め言葉が並ぶと、かえって怪しく見えてしまうもの。一介の民間人でありながら吉田茂の懐刀となり、下積みの経験もなしに各社の会長職を歴任したという経歴も常識外れだ。実際、エピソードの一部は眉唾で、喧伝されているような傑物ではなかった、という指摘もなされている【下部のカコミ記事を参照】。付け加えれば、ブーム以前、特に1940年代後半〜50年代半ばのメディアでの次郎の扱いは、今とは正反対。「吉田茂の愛犬」「和製ラスプーチン」「茶坊主」等々、雑誌のみならず大手新聞でも、あることないこと散々にこき下ろされていた。それが半世紀後には、「容姿と能力とセンス、この三つが奇跡的なレベルで揃っている人」(「BRUTUS」09年1月15日号)と言われるまでになるのだから、メディアの評価などいい加減なものである。
ただ、そうした数々の逸話の真偽以上に重要なのは、なぜ今、白洲次郎が日本人に好意的に受け入れられ、その"虚像"がかくも膨れ上がっているのかだろう。米国に言いなりの政府を苦々しく思う日本人の目に、コミュニケーション能力に長け、欧米と真っ向から対峙した人間が輝いて映るからか。はたまた、「昔はそんな立派な日本人がいたんだ」と思うことで溜飲を下げ、長引く不況で失った自信を取り戻したいという願望が、白洲次郎という人物を"再発見"したということなのか──。
いずれにしても、彼が日本人離れした人物だったからこそ、「かつては存在した、理想の日本人」としてもてはやされている、というのは皮肉なことだ。次郎が本当に「日本一カッコいい男」であったかどうかはともかく、その"伝説"を鵜呑みにしてありがたがる日本人は、「あんまりカッコよくない」のではなかろうか?
伝説その2 ゴルフの最高ハンデ「2」?
記念館として01年より公開中の旧白州邸「武相荘」運営者が発行するメールマガジンに、「実際は『7』か『8』だったと思いますが、いつの間にかハンディキャップ『2』の名人に成ってしまいました」(「武相荘だより」08年12月25日号)と記されているように、身長同様、誇張される傾向にある。「このまま後5年もすると、白洲の身長は2mを超え、ゴルフはタイガーウッズより上手くなってしまうのでは...と、とても心配です」(同)との危惧もうなずける。
伝説その3 マッカーサーを叱り飛ばした?
「いかにも次郎さんらしい話」(「新潮45」98年9月号)と正子"公認"のエピソードだが、前出の徳本氏による「週刊朝日」(08年11月28日号)の記事によると、当時のマッカーサーの面会予定表やゲストブックに次郎の名はなく、この逸話には疑問が残るという。
伝説その4 従順ならざる唯一の日本人?
GHQが本国にこう報告したのは事実だが、実際には、GHQと激しく対立し、公職追放された石橋湛山蔵相らの例もある。次郎自身の見解も、「占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいたとすれば、ただ二人----。一人が吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ」「内閣の閣僚で、毛唐に平気でものをいって一歩も退かなかったのは、吉田さんを除いては石橋湛山一人である」(「週刊新潮」75年8月21日号)と微妙にブレている。
伝説その5 「プリンシプル」を貫いたサムライ?
「自ら定めた原則を貫いた人」というのは、次郎のイメージとして広く知れ渡っている。一方で、「必要とあらばGHQとも手を結ぶリアリスト」「外国資本に口利きをして見返りを受け取る国際ブローカー」「原則を貫けたのは、権力や財力が背景にあったから」など、「サムライ」に似つかわしくない評価もある。