アメリカを代表する音楽プロデューサー、ディディが窮地に追い込まれている。元恋人への性加害をはじめ、性的人身売買や暴行、果てには殺人の疑惑まで――。アメリカのヒップホップ/R&Bシーンに革命を起こし、ものさしでは測れないほど栄華を極めた彼のキャリアと嫌疑を音楽ライター・小林雅明が追う。
不本意に脚光を浴びた 音楽性ではない暴力性
1995年、当時26歳だったディディ(一番右)。ここから巨額の富街道まっしぐらとなるわけだが、一体どこで道を踏み外してしまったのか。ちなみに写真は左からザ・ノトーリアス・B.I.G./ネイト・ドッグ/スヌープ・ドッグ。(写真:Nitro/Getty Images)
ホテルの廊下とおぼしき場所を、画面手前に向かってとぼとぼと歩いてくる女性。エレベーターホールまで歩こうとしているようだ。すると、画面奥から彼女のあとを追うように駆け込んくる者の姿が。慌てて部屋から飛び出してきたのか、バスタオルを腰に巻いただけの格好だ。男は彼女に追いつくや、投げ飛ばすは蹴るはの暴力をふるい、廊下に設置されたホテルの電話を使おうとする彼女を、元来た方向に引きずろうとするがうまくいかない。さらに男はその場に飾ってあったガラス製の花瓶を威嚇するように投げつけ、さらなる恐怖で縮こまっている彼女に蹴りを入れると、自室の方向へ戻っていく。捨て台詞を吐いているのか、口が動いているのが見て取れる。
去る5月17日、このような防犯カメラ映像をCNNが突如放送した。映っている男は、2023年に公表された長者番付リストによれば、世界で二番目にリッチなラッパーである、ディディことショーン“パフィ”コムズだ。この愛称のパフィは、怒ると息を荒げる(huff and Puff)ことが、幼い頃からの特徴だったことに由来しているという。だが、この映像を見るに、「三つ子の魂百まで」とは言ってられない。
現在40歳以上で洋楽通の読者諸氏にとっては、メアリー・J・ブライジの作品を通じ、ヒップホップビート(リスナーにはサンプル源としてなじみの定番ブレイク)とソウルフルな歌(唱)を組み合わせた「ヒップホップ・ソウル(あるいはヒップホップR&B)」の仕掛人として広く知られているだろう。自身のレーベル〈バッド・ボーイ・エンターテインメント〉を立ち上げ、ビギーことザ・ノトーリアス・B.I.G.をはじめとするアーティストを送り出し、さらに90年代半ば過ぎには、自らラッパー〈パフ・ダディ〉として名乗りを上げ、ポップできらびやかなイメージを全面に押し出した“売れるラップ曲”を流行らせたことで広く知られているかもしれない。
冒頭で述べたホテルの防犯ビデオに映っている女性は、件のコムズのレーベルから06年にデビューしたシンガーのキャシーことカサンドラ・ベンチュラだった。
実はこの映像は2016年3月5日に撮影されていたもので、直後にコムズが500万ドルで買い取ったとされている。しかも、これは彼女がコムズに対し、昨年23年11月に訴えを起こした際、提出されたものだったというのだ。彼女は19歳だった05年から、当時36歳のコムズとの交際が始まり、別れを切り出した18年に強姦されるまでにも、会うたびに頻繁にドラッグとアルコールで酩酊させられ、複数回コムズが雇った男性のセックスワーカーとの性交渉を強要されたことがあり(コムズは自らの欲望を満たすためそれを撮影)、彼女と交際が噂されたラッパーのキッド・カディが所有する車両を爆破させた――ことさえあると明らかにしている。ところが摩訶不思議なことに、その翌日には示談が成立、その具体的な内容は公表されていないが、一部報道では億単位の金額が示されたと伝えられている。
去る3月25日、国土安全保障省の家宅捜索が入ったディディが所有するロサンゼルスの豪邸。確かにこれは日常的にリアルに何かが起きていてもおかしくない広大さ。(写真:MEGA/GC Images)
ともあれ、キャシーの告発はとてつもなく勇気のいる行動だったのは間違いない。その勇気に背中を後押しされたかのように、わずか数日後にはさらに2人の女性がコムズを訴え、90年代初頭にキャシーの例と類似する被害を受けたことが詳らかとなった。彼女らが30年以上前の被害を起訴できたのは、アダルト・サバイバーズ法(成人サバイバー法)の効力が失効する数日前だったからでもある。この特例法の有効期間内なら、性的虐待の被害者が虐待発生時期に関わらず、加害者に対し申し立てを可能にするというもので、被害者が羞恥心やトラウマ的な記憶の抑圧、報復/脅迫被害などを理由に時効内に訴えを起こせない可能性が高いことを鑑みて生まれたものだ。
さらに翌12月には、コムズおよびプロデューサーのハーヴ・ピエールらに当時17歳だった03年に輪姦されたという女性も訴えを起こした(コムズを訴えた3人目の女性は、コムズに加え、シンガーのアーロン・ホールにも強姦されたと述べている)。そして、24年2月にコムズを訴えた5人目の被害者は男性で、彼のアルバムのプロデューサーであるリル・ロッドの愛称で知られるロドニー・ジョーンズで、彼もキャシー同様にセックスワーカーとの性交渉を強要されたり、コムズに下半身をまさぐられたといった類いのものだった。