――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。
人類はいつから戦争を始めたのか、古代スーダンの遺跡から明らかになる原始社会の様相とは。民族考古学的なアプローチで縄文時代と未開社会の構造を探求する、高橋龍三郎氏に聞く。
今月のゲスト
高橋龍三郎[先史考古学研究所所長]
早稲田大学文学研究科博士後期課程満期退学。早稲田大学文学学術院教授、同・先史考古学研究所所長。専門は先史考古学。主な研究テーマは、縄文社会の複雑化・階層化過程の研究。著書に『縄文文化研究の最前線』(単著)、『科学で読みとく縄文社会』『パプアニューギニア民族誌と縄文社会:土器型式の解明に向けた基礎的研究』『村落と社会の考古学』(編著)など。
萱野 高橋さんは縄文時代を専門とする考古学者であると同時に、オセアニアやアフリカなどの部族社会のフィールドワークも精力的におこなっており、人類社会の原初的なあり方とはどのようなものだったのかという問題を多角的に探究されています。そこで今回は、人類がこれまで幾度となくおこなってきた戦争について、その原型や起源はどこにあるのかを高橋さんと考えていきたいと思います。まず、人類の歴史においてもっとも古い戦争はどこまでさかのぼることができるでしょうか。
サハラ砂漠で発見された岩絵。紀元前5000〜2000年前の遊牧民とされる。(写真/Getty Images)
高橋 武器を用いた集団間の闘争を戦争と定義するならば、歴史上もっとも古い戦争の跡だとされているのが、スーダンのヌビア砂漠に位置するワジ・ハルファのジャバル=サハバ117遺跡です。ここには約1万5000年前の旧石器時代の人骨が数十体も埋葬されていたのですが、その多くが槍などの武器によって殺傷されていました。発掘された人骨は、男性だけでなく、女性や老人、子どもまで攻撃された痕跡があり、情け容赦のない苛烈な争いがあったことが推測されます。また、埋葬が繰り返しおこなわれていた形跡があることから、それが一度の襲撃で生じた被害ではなく、相手グループと継続的な報復のサイクルの一部だったことを示しています。
萱野 旧石器時代にすでに戦争と呼べるような現象があったということですね。
高橋 そうです。従来は食料生産経済が始まって余剰生産物が生まれ、その余剰を奪い合うことで戦争が起きたと考えられていました。しかし、ジャバル=サハバの発見はそうした戦争史観の反証となるものであったので世界的に大きな注目を集めたのです。
萱野 1万5000年前の旧石器時代にはまだ農耕は始まっていません。マルクス主義でも、戦争は農耕社会の成立とともに始まったと考えられています。狩猟採集社会から農耕社会へと移行したことで、余剰生産物が生まれ、その富をもとに支配関係が生まれ、その支配関係のもとで土地や富をめぐって他の集団と戦争がおこなわれるようになった、と。こうしたマルクス主義の見方はその後の学問にも大きな影響を与えました。ジャバル=サハバの発見はしかし、その通説をくつがえすものですね。ただ、農耕をしておらず、したがって守るべき土地もないのであれば、当該集団は女性や子どもまで殺されてしまうような武力対立からは逃げてしまえばいいようにも思えます。いったい何が彼らをそのような戦争に駆り立てたのでしょうか。
高橋 その問いのヒントが、人骨と一緒に埋葬されていた牛の頭蓋骨に隠されているかもしれません。これは武器で損傷した数十体の人骨のうち、4体の頭の近くにあたかも墓標のように置かれていました。当時の牛はまだ家畜化されておらず、背丈が2メートル近くある大型の野生原種で簡単に飼い慣らせるような動物ではありません。そんな牛の頭蓋骨をわざわざ墓標にすることには何か意味があるはずです。
萱野 牛は狩猟での大きな成果物だったので、その頭蓋骨を遺体と一緒に埋葬したということでしょうか。
高橋 狩猟対象としての可能性は否定できませんが、当時のナイル川流域の食料資源を考えると、ナイルパーチやティラピアのような魚類のほうが安全かつ手軽なタンパク源になりますし、野鳥も多い地域なので、凶暴な野牛を食料のために狩る必要性は低かったでしょう。現在の東アフリカの牧畜民族を見てみても、牛は肉を食用にするのではなく「歩く冷蔵庫」として主に乳に経済的価値を見出しており、めったにつぶすことはありません。ただ、牛の牧畜がそのように経済的資源として重要になったのは、紀元前7000〜6000年頃なんですね。
萱野 ジャバル=サハバの人びとは、狩猟や牧畜によって得られる経済的利益とは別の点で牛を重視していた、と。
高橋 おそらく野生牛は儀礼や祭祀で重要な役割を果たしていたのだと思います。現在の東アフリカ牧畜民たちの間でも牛は非常に大切な存在です。たとえば雨乞いのような集団儀式に生贄として用いられたり、個人が結婚するときの“婚資”として牛を支払ったりする。牛を殺すのは重要な儀礼や祭祀のときだけであり、そのために肉を食用にせず牽引して共に生活しているんですね。牧畜以前の旧石器時代も、同じように牛は儀礼用の動物として価値があったのでしょう。サハラ砂漠のジェベル・ウェイナットには草原地帯だった先史時代に描かれた岩絵が多数あり、そこにはダチョウやキリンの首に紐をつけて牽引する人物の絵があります。これも食用ではなく儀礼のために野生動物を確保していたのだと思います。むしろ、そのような習慣から儀礼用の動物の馴化が進み、やがて家畜化と牧畜が発展していったのだと考えられます。
萱野 まずは儀礼のために野生動物を手元においておくという行動があって、牧畜はそのあとに発展したということですね。となると、ジャバル=サハバで人骨と一緒に埋葬されていた牛の頭蓋骨も儀礼的な意味をもつと推測できますね。
高橋 そうです。牛の頭蓋骨は、血縁関係のなかでトップに立つ人、あるいは儀礼の執行者など、集団のリーダーの慰霊や儀式の一環として置かれたものではないか、と。これは争いの原因が経済的資源の奪い合いではなく、その集団にとって神聖なものへの侵害だったことを示唆しています。たとえば、野生牛を「カミ」のように霊的な存在として信奉している集団が、ライオンを信奉する集団に牛の存在を罵倒されたら、自分たちの根源的なものを穢されたと感じるわけです。未開社会では「カミ」や「霊」は集団の組織化の根拠になりますから、それを脅かされたときには決死覚悟の徹底的な戦いに出ることになります。
萱野 私たちは、戦争の起源にあるのは経済的な利害対立だと考えがちですが、むしろ人びとの集団的な紐帯やアイデンティティ、プライドのほうが戦争の起源としてより根源的なのかもしれません。現代でも、経済的にみたらそれほど重要ではない土地で根深い領土問題が生じることがあります。ジャバル=サハバの牛の頭蓋骨は、そうした集団的な紐帯の神聖さをあらわすようなものだったのかもしれませんね。
高橋 集団の旗印のようなもので、それらは守り神のような役割を果たしていたとも考えられます。集団のリーダーはメンバーを結束させるために自分たちのカミが他の集団のカミよりも強力な存在であることが必要で、そんなカミが藩屏になり、敵対する集団にとってはタタリ神として恐怖の対象になるんですね。日本神話にもそのような例をみることができます。天照大神は慈悲深い守護神とされていますが、これは大化の改新で国家統一を図る段階で政治的に作り上げられたものです。その前身は一部の氏族を守る神に過ぎず、他の部族にとってはタタリ神だったとされています。このようなカミが守護神として集団を結束させるのです。