社会に巻き込まれる〈私〉を描く日本文学、社会と〈私〉が接続する韓国文学

近年、日本でも数多くの翻訳本が刊行されている韓国文学。なぜ日本で親しまれるようになり、そこでは何が描かれているのかを文学作品から考えた斎藤真理子『韓国文学の中心にあるもの』の刊行からおよそ1年。文筆家・水上文と、日韓の文学における〈私〉と社会の描かれ方の違いについて語り合っていただいた。

『韓国文学の中心にあるもの』 斎藤真理子著/イースト・プレス/22年

水上 『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)刊行から約1年がたちました。日本に韓国文学を読みたい人が多くいるのはなぜなのかが、この本のテーマのひとつになっていると思います。今日はそこから、日本と韓国の文学や社会の違いについて考えたいです。

この本では最初に、斎藤さんが翻訳された『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)を取り上げられていますね。キム・ジヨンという女性がそれまで受けてきた女性差別を描いている作品で、日本でも非常に多くの方に読まれました。

斎藤 キム・ジヨンの悩みや苦しみの根底に、太くて重くて苦しい韓国現代史があります。そうした根っこに支えられていたからひとりではなく、大勢の女性の物語になり、韓国人男性の物語にもなったのかもしれません。だから韓国で100万部以上売れて、議論の的にもなった。そして個人と社会を串刺しにしている大きなものが、自分について考えるための縁になったから、日本においても多くの方に読んでもらえたのではないかと思います。

異なる社会で生まれる小説の違い

『82年生まれ、キム・ジヨン』 チョ・ナムジュ著・斎藤真理子訳/ちくま文庫/23年

水上 韓国文学を読むと、主人公たちが感じる苦しさやつらさがどんなふうに社会とつながっているのかを、作家が意識して書いていることを感じる点が日本の小説とは違うと思います。

斎藤 作家だけではなく朝鮮半島で生きる一人一人が、多かれ少なかれ備えているものかもしれません。日本は、社会の問題や矛盾に巻き込まれるものとして自分が存在するという感じ方が強い。一方で、韓国では大きな社会や世界の問題と個人の問題の中心が重なっているように思います。朝鮮半島が、世界から見てもいろいろな意味で特異だった歴史を持つゆえではないかと思います。

例えば日本型自然主義というか、田山花袋の『蒲団』のような、作家が自分の経験を赤裸々に書き、読者はそのことをわかった上で読むという、極めて特徴的な小説のあり方が日本にはあります。こういう私小説に対して「社会性が低い」という批判はずっとなされてきていますよね。

韓国や中国での私小説について研究されている方たちがいます。例えば、アン・ヨンヒ先生の『韓国から見る日本の私小説』(梅澤亜由美訳・鼎書房)という評論がすごく面白かった。朝鮮半島の文学者は、植民地時代に日本に留学して新しい文学を書き始めた人が非常に多いんです。にもかかわらず、日本の私小説はそのままの形では朝鮮半島に入ってこなかったんじゃないか、それはなぜかを考察されている。それを読んだ私の印象をざっくりひと言でまとめてしまうと、「それどころじゃなかったから」じゃないかということになります。

日本統治下の朝鮮半島で、身近にあった出来事などを書く身辺小説といわれるような作品は1930年代にもありましたし、解放後の韓国にもあったそうです。ただ70年代、80年代になると、軍事政権下で、我が国をこれからどうすればいいのかという問題が大きすぎて、身辺小説は影を潜めた。

実は90年代の韓国で、シン・ギョンスクさんの『離れ部屋』(安宇植訳/集英社)という作品が、日本の私小説とよく似た小説を女性の作家が書いたというので話題になりました。確かに日本の私小説と造りは似ているかもしれないんですが、私としては非常に内省的で叙情性もある、とてもいい社会派の小説という感想を持ったんです。シン・ギョンスクさんはそれまで、自伝的なことをそれほど反映させずに書いていらしたのですが、95年になって、10代の時に工場で働いていた青春時代のことを書かれたんです。自分がなぜ、今これを書くようになったかということを丁寧に見つめていますが、やはり社会の矛盾と自分の抱えている葛藤の中心が、ぴたっと合っているんです。歴史的現実の一部として自分の問題を捉えている小説なのにもかかわらず、告白体小説であるために、韓国の読者や評論家がこれを日本の私小説に似ていると捉えた点が、とても面白いと思いました。

水上 面白いですね。日本では、自分と社会の問題がどんなふうに重なっているかよくわからない、自分と社会のつながりを捉えられない人が多いように私は感じています。特に文学では、社会性や政治性に還元されない私性という形で個人が捉えられてきたのではないか。個人を書くものこそ文学であり、社会性や政治性は文学と相反するものくらいに考えている人も多いのではないかと。韓国文学における「私」(個人)と、日本文学における「私」(個人)は、同じ言葉を使っていても全然意味が違うのかなという印象を受けました。

斎藤 個人の内面を描いても、どこかで国家とか大きな物語と接続してしまう、不可分になってしまう時期が長かったんじゃないかと思うんです。パク・ミンギュさんの小説を読んでいても、個人が社会から完全に浮遊することはないという印象を持ちますね。ただ、浮遊できないというのも不自由ではあるとは思うので、どっちがいいとか悪いとかでは全然ないと思います。社会のあり方が違うという話です。

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