――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。
トップアスリートはどのように理想の身体を作り上げているのか。その探究的な姿勢を『ルポ 筋肉と脂肪』の著者である作家・平松洋子氏に聞き、自分の身体との向き合い方について新しい視点を開く。
今月のゲスト
平松洋子[作家]
1958年生まれ。東京女子大学文理学部社会学科卒。大学在学中からライターとして活動を始め、食文化や暮らし、文芸などをテーマに幅広く執筆。06年『買えない味』でBunkamuraドゥマゴ文学賞、12年『野蛮な読書』で講談社エッセイ賞、21年『父のビスコ』で読売文学賞を受賞。最新刊は『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』(新潮社)。
メジャーリーグで活躍する大谷翔平選手。(写真/Mitchell Leff/Getty Images)
萱野 近年では「人生100年時代」ということがいわれるようになりました。私たちは望むと望まざるとにかかわらず100歳ぐらいまで生きることを想定しなくてはならない時代になったということです。そこでますます重要となってくるのが自分の身体とのつき合い方です。私たちは生きている間ずっと自分の身体とつき合っていかなくてはなりません。平松さんは『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』(新潮社)のなかで、トップアスリートやスポーツ関係者への取材を通して、理想の身体を作るための過程を詳しくルポルタージュされています。そこには、これから長く自分の身体とつき合っていかなくてはならない私たちにとっても多くのヒントがあるように感じました。とりわけ本書では“食”に焦点が当てられていますね。
平松 この本の柱のひとつは、アスリートの身体作りに“食”という補助線を引いたとき、そこに現れてくる諸相に私たちが学ぶべきものがあるのではないか、という視点です。現代社会の食をめぐる状況はきわめて多様で複雑ですから、さまざまな論点が挙げられますが、つねに自分の身体と対話を重ねているアスリートたちの食事のありかたにフォーカスし、改めて「食と身体」の関係性を探りたいと考えました。
萱野 この本のなかでまず印象的なのは、アスリートたちの食事に対するこだわりと探究的な姿勢です。皆、ものすごい労力と時間をかけて、自分にとってベストな食事を求めて試行錯誤している。アスリートにとって食事はトレーニングと同等か、あるいはそれ以上に大切なものだという認識があるようですね。
平松 取材をしたアスリートが口を揃えて強調していたのは、運動、休息、食、この3つのバランスの重要性です。ただ、そのバランスには型があるわけではなく、アスリートの目的によって大きく異なります。例えば、プロレスラーと長距離走選手では求められる筋肉がまったく違うし、当然バランスの組み立ても変わってくる。そこで、自分に必要なトレーニングと食事、休息の相関関係を客観的に理解し、実行する必要があるわけですが、それを意識して適切に取り組めているアスリートは、思いのほか少ないようです。ただ、やはりトップレベルになると、その認識の度合いからして違う。身体作りのための食事は、摂取カロリーや栄養素を計算したうえで成立している緻密なもの。一般人からすればストレスが溜まるのでは、と思いがちですが、一流のアスリートであればあるほど、食事の持つ意味やメカニズムを理解し、トレーニング、食、休息を自分にとって必要なものとしてポジティブに変換しています。
萱野 身体は食べたもので作られているということに彼らはとても自覚的ですよね。
平松 はい。WBCのときに話題になった大谷翔平選手の“塩だけのパスタ”のエピソードが、それを象徴しています。彼は侍ジャパンでチームメイトになった近藤健介選手に「それ、人生つまんなくね? おいしくないじゃん」と突っ込まれたところ、平然と「おいしいよ」と返したとか。大谷選手にとって、塩パスタは面白みのない食べ物ではなく、自分の身体に必要なカーボンを積極的に取り入れ、不必要なものを摂らないための最適解なのですね。また、大谷選手は非常によく眠ることでも知られています。1日8時間から多いときは12時間以上、さらに昼寝もするそうで、練習時間だけでなく、睡眠によって休息もルーティンに入っている。このような日々の取り組みは、彼が自分の身体に必要なものを理解し、それを中心に行動している証左だと思います。
萱野 他人からは禁欲的すぎると思われることを楽しめるぐらいでないと、トップアスリートの身体を維持することはできないのでしょうね。
平松 大谷選手はたしかに非凡な才能を持っているのでしょうが、さらに、自分の目指すべき姿に向かって必要なことを、しかも楽しみに変換しながら努力できるポテンシャルも並外れて優れているのだと思います。大谷選手はその規格外の活躍ぶりから“宇宙人”なんて呼ばれたりするけれど、身体のメカニズムを熟知し、かつコントロールでき、さらに進化させられるという意味において、むしろ彼ほど人間的なアスリートはいないのではないかと思うんです。
萱野 大リーグで投手と打者の二刀流を実現するためには、投手でも打者でも高いパフォーマンスを示さなくてはなりません。考えただけでも、いかにそれがケガや疲労と隣り合わせなのかがわかります。並外れた才能を発揮するためにも地道な身体作りとそのメンテナンスが必要なんですね。
平松 過去に誰も挑んだことがない世界を切り拓くために考え抜いた思考と実践の結果が、あの身体なんですよね。一方、メジャーリーガーとはまったく異なるバランスですが、コンタクトスポーツの競技者、力士の身体管理にも繊細な感覚が求められます。押尾川親方(元豪風関)に聞いた話で、本にも書きましたが、15日間の本場所が始まって中日を過ぎると、しだいに肉体的にも精神的にも疲労し、身体が変わってくるそうです。その変化は、まわしを締めたときの微妙な違いにも現れる。体重の減少を防ぐために、食と休息を巧みに使って調整するというんですね。たんに相手を突き飛ばすための巨体を作るのではなく、ぶつかり合ったとき、身体を壊さずに最大限のパワーを発揮するための筋肉と脂肪のベスト感覚を自分で作っていくわけです。
萱野 力士はただ太っていればいいというわけではないですからね。体重に見合った筋力がなければ自分の体重を支えきれなくなり、取組に勝てなくなるばかりか、ケガもしやすくなってしまう。それに加えて実は太るということも難しい。量を食べることができなくて苦しむ力士も多いそうですね。とくに本場所中は、疲労が溜まって食べられなくなることもよくあるそうで、そうなると体力が落ちて、勝敗にもろに影響してしまいます。
平松 取材を重ねながら私が理解したことのひとつは、スポーツ選手には内臓の強さも求められるということです。量を食べこなす力、また、効率よく栄養を消化吸収する身体機能の強さ。つまり、内臓の強さも身体能力のひとつなんですね。内臓機能のポテンシャルは身体のマネジメントと直結しているわけで、私たちの「食べる」とスポーツ選手の「食べる」は、フェイズが大きく異なるものだといえます。
萱野 以前、元プロ野球選手の赤星憲広さんにうかがった話なのですが、プロ野球のシーズン中はどうしても徐々に疲労が溜まってしまい、食べる量も落ちてくるそうです。ただ、そこで持ち直してしっかり食べられるようになると、その年は成績もいいそうで、逆に食べられない年は成績も落ちてしまうそうです。食べることがそこまでシビアにパフォーマンスに関わっているということなんですね。ほかにも、アーティスティックスイミングの女子選手の食事量を聞いたときは驚きました。アーティスティックスイミングはとてもエネルギーを使うスポーツなので、1日5000〜7000キロカロリーを摂取しないとどんどん痩せていってしまうそうです。これは成人女性の1日摂取カロリーの3〜4倍にあたります。ダイエットをしたい人からすれば、どんどん痩せるなんて羨ましいと思うかもしれませんが、アーティスティックスイミングの世界では、痩せてしまうと筋力も落ちるし、浮力のための脂肪も落ちてしまうので、一気にパフォーマンスが低下してしまう。だからいくら練習で疲れていても食べなくてはならない。食べることが練習よりも苦しいという選手もいるそうです。
平松 今年引退したプロレスラー、武藤敬司さんの若手時代には、疲労困憊して食べ物を咀嚼するのも辛いから、とミキサーにちゃんこをかけて潰して飲んでいた人もいたそうで、これも凄まじい話です。
萱野 高齢者でもよく食べる人ほど元気だということが指摘されています。とくに肉や魚などの動物性タンパク質をよく食べる人には元気な人が多い、と。それだけ「食べることができる」というのは生命力の証しなのかもしれません。