萱野稔人と巡る【超・人間学】――誰もが直面する倫理の問題(前編)

――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。

コロナ禍は、社会全体にいくつもの“倫理的な問い”を突きつけた。そこに“答え”はあるのか。そもそも人間にとって倫理とは? 今そこにある倫理の問題について、倫理学者・佐藤岳詩氏に問う。

佐藤岳詩氏(写真/永峰拓也)

今月のゲスト
佐藤岳詩[専修大学文学部哲学科准教授]

1979年生まれ。京都大学文学部卒業。北海道大学大学院文学研究科博士課程修了。博士(文学)。熊本大学文学部准教授を経て、現在は専修大学文学部哲学科准教授。専門はメタ倫理学、エンハンスメントを中心とした応用倫理学。主な著書に『メタ倫理学入門』(勁草書房)、『心とからだの倫理学』(ちくまプリマー新書)、『「倫理の問題」とは何か』(光文社新書)などがある。


萱野 新型コロナウイルスの感染拡大は、さまざまなかたちで私たちに倫理的な問いを突きつけました。例えば感染拡大防止と社会経済活動のどちらを優先すべきかという問題はその典型です。多くの人は「当然、命を守るために感染拡大防止を優先すべき」と考えるかもしれません。ただ、コロナ禍による自粛生活のもとで自殺者が例年よりも大幅に増えていることを考えるなら、社会経済活動を優先することも命を守るための選択となります。最近発表された東京大学の研究者たちの研究によると、新型コロナの感染によって失われた命と、コロナ禍において例年の自殺数より増えた分(超過自殺)によって失われた命を、それぞれ余命年数で計算すると、超過自殺によって失われた余命年数の方が長いそうです。ほかにもワクチンパスポートを導入すべきかどうかという問題も典型的な倫理の問いです。そこで今回は倫理学者の佐藤岳詩さんと、人間にとって倫理とは何かという問題を考えていきたいと思います。ただし倫理といっても、ここで言う倫理には特別な意味は込められておらず、道徳と同じものだと考えてください。まず、佐藤さんはコロナ禍でさまざまな倫理的な問いが突きつけられている状況をどう見ていますか。

佐藤 コロナ禍以前から倫理を問われるような問題は至るところにあったのですが、それが国民全体、社会全体のレベルで見えるようになってきたという印象です。自粛警察のような「自分は我慢しているのに、なぜお前は我慢していないのか」という怒りを他人にぶつけてしまう現象は、学校や企業、共同体などの中でもよく見られたものですが、コロナ禍によって行き過ぎた行為がさらに広がり、マスコミを通じて多くの注目を集めたことで、改めて倫理が人々の口に上がるようになったという側面があるのではないでしょうか。また、学生を見ていると、例えば今の2年生は、入学してから現在までほとんど通学ができていません。オンライン授業にもいいところはありますが、やはり対面で他の学生と一緒に講義に参加したいという気持ちをもつのも当然です。そうした状況で行動自粛における受益と負担のバランスに疑問を感じて「これは本当に正しいことなのか」といった問いが出てくるのも自然なことだと思います。

萱野 佐藤さんは著書『「倫理の問題」とは何か』(光文社新書)の中で、人が倫理的な悩みを抱えたり、倫理的な問いを立てたりするのは“日常にひっかかりが生じたとき”と書かれています。その点で言えば、コロナ禍とはまさに日常が大きく揺らいだ出来事であり、さまざまな倫理的問題が大きく問われざるを得ない出来事です。では、なぜそもそも日常にひっかかりが生じると、倫理的な問いが差し迫ってくるのでしょうか。

佐藤 私の考えでは、倫理は私たちの日常に深く根付いていて、常に身の回りにあって日々の生活を支えているものです。それは例えば、周囲の人間との関係であったり、社会とのつながりであったり、さまざまな関係性や自分の世界観の根本になっているものです。ただ、これはあまりに当たり前にあるものなので、普段は特に意識することもなく、今日も明日もなんとなくずっと同じように続くと信じているんですね。しかし、実際には不変のものではないので、あるときに揺らいでしまう。今回のコロナ禍のように突然、非日常がやってくるわけです。こうした日常が危うくなる状況になって初めて、人はこれまで自分が支えられてきたものに気づきます。そして、それが失われたことで「これまでと同じように生きていけるのか」と恐怖や不安が生じ、そもそも自分を支えていた感覚、倫理について考えるようになります。そして、それを「どのように取り戻せばいいのだろう」という問いが立ち上がってくる。そうした日常にひっかかりを起こす変化は、世界的な感染症の流行や大地震などの天災といった大規模なものもあれば、友達に突然悪口を言われたとか家族と揉めたとか、学校に通えなくなったとか、そんな身近なレベルのものまでさまざまなものがあります。いずれにしても、当たり前だった日常がうまくいかなくなるようなことがあって、これは正しいことなのか、それとも間違ったことだろうかと考えることになるのです。

萱野 倫理は意識せずとも日常に織り込まれていて、人々はそれを前提にさまざまな行為をなしているということですね。

佐藤 倫理をどのように捉えるかについては倫理学者の中でも複数の見解があるのですが、私は倫理をできるだけ広いものとして考えたいんですね。よく好んで使うのは倫理を“世界の見方”とする例えです。世界とのつながり方、接し方などと言ってもいいと思います。つまり、世界がどのように見えているのか、どうやって理解しているのか、そのあり方こそが私たちの倫理であるとするものです。これは作家としても知られるイギリスの哲学者アイリス・マードックが提唱した“見方の倫理”という考え方で、彼女は「倫理は世界に染み渡り、遍在する」とも言っています。もし、自分が世界を歪んだ見方でとらえていれば、世界を歪んだものとして理解してしまう。その見方自体が倫理の表れであり、それによって自分に都合よく世界を理解したり、偏見が生じたりすることも当然ありえます。そういう意味では自粛警察のような問題も自粛要請に応じない商店とそれを糾弾する人たちのどちらに倫理があるのか、あるいはないのかということではなく、それぞれ世界の見え方、歪み方が違っているということだと思います。

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