男性として生きるために引退を決めた女子野球選手の葛藤

自分だけではなかった女子野球部のFtM

(写真/佐藤将希)

「入部すると、先輩や同級生にFtMの人が何人かいたんです。それまでの自分は男子に対する恋愛感情も湧かず、性欲もなかった。野球さえできていればよかったから、それをあまり気にしていなかったのですが、周りの話を聞いているうちに『自分はFtMなんだな』と自覚するようになり、ある意味、スッキリもしました」

ただ、だからといって何かが劇的に変わるわけではなかった。「FtMなんだ」と自覚しただけで、生活の中心はあくまで野球。朝練に放課後の練習、夜の自主練習。全国制覇を目指し、ひたすらボールを追った。気がつけば下級生時代からベンチ入りメンバーに入り、3年生ではレギュラーとして全国大会でも活躍した。

男子の場合、スポーツ強豪校にはマッチョな選手も多い。過去に行ったゲイのアスリートの取材では「バレたらからかわれる、人生が終わる」とゲイであることを隠すケースが多く、その点で、ほとんどの選手は孤独だった。しかし、智広は違った。

「僕がFtMをほかの部員の話で知ったことが何よりも象徴的ですが、周囲は『あ、そうなんだ』くらいの感覚で、話すこともタブーではないんです。FtMの人は先輩にも他チームにもいる。普通にいる感じなんですよ。彼女がいる人もいたし」

言われてみれば女子スポーツの強豪チームには、昔から“ボーイッシュ”“男まさり”といったルックスで、同性人気も高い選手がいた。スポーツを離れても、例えば女子校には“モテる女子”がいて、彼女たちは校内で憧れの存在から、ちょっとした恋愛対象になることもあり、バレンタインデーともなれば下級生からチョコをたくさんもらう……といった類いの話をよく耳にする。

「ただ、『FtMなのかな?』と思った子が卒業して何年かすると、男性と結婚して子どもを産んでいたりするんですよね。FtMと付き合っていた子も、レズなのかノンケなのか、よくわからなかったことがあったし」

ともあれ、FtMについては比較的、自然に受け入れられた環境だったのだろう。

「野球部の監督もそうで、手術後に挨拶に行ったのですが、『あ、そう』くらいの反応でした。監督はベテランだから、それまでもFtMの子をたくさん見てきて理解があるのだと思います。その意味では、少なくとも僕はFtMであることで悩んだ経験はなかったですね」

そんな環境の中で、智広も生まれて初めて“彼女”ができるなど、プライベートでも充実した高校時代を送った。だからこそ、卒業後のことを真剣に考えるようになった。

「先輩には卒業後、治療・手術を行い、戸籍も男性にした人がいて。自分も将来どうしようかな……と考えるようになりました」

まだまだ野球は極めたい。その頃には女子プロ野球が誕生しており、さらに上の世界を目指すこともできた。一方で、FtMゆえの“女性”として生きることへの窮屈さ、面倒くささから解放されたいという思いもあった。

「治療や手術は、若いうちにしたほうが負担やリスクが少ないんです。ただ、治療をして戸籍も男性にしてしまえば、女子野球選手としてプレーできなくなる。まあ、実際は治療後も女子としてこっそりプレーしている選手もいるのですが、僕はそれに違和感がありました」

究極のようにも思える選択を迫られた智広。しかし、結論を出すのは早かった。

「やっぱり女性ではなく男性として生きたい、という気持ちのほうが強かったんです。だから、大学4年まで女子野球をプレーして、そこで選手はキッパリ引退。治療を始めると決めました」

高校卒業後に女子プロ野球に挑戦する道もあったが、選手引退後の人生を考え、大学で就職に役立つ勉強もしたかった。プロ野球の世界が確立している男子に比べ、女子プロ野球は組織基盤が盤石ではなく、立場や収入も不安定。進路として考えた場合、慎重になる選手がいてもおかしくはない。実際、2021年に日本女子プロ野球機構(JWBL)は事実上の消滅状態になった。ただ、見方を変えれば、治療後に男子として何かしらの形で選手を続ける道もあったのではないだろうか。

「はい。それは自分も考えて、治療後、試しに男子の草野球に参加してみたんですよ。でも正直なところ、力の差を感じました。これは通用しないな、と。だから、選手としての活動はスパッとあきらめました。女子野球では上のレベルの選手という自負はあったから、男子としてプレーして上手なほうに入れない自分が嫌になりそうだったので……」

トップを目指せないなら、プレーをする意味がない。それは、女子野球の第一線で戦ってきた智広なりの矜持なのかもしれない。

最後に智広に、ひとつ質問してみた。「もし今、自分がオリンピックのメダル候補とされる女子選手だったら、治療をするか?」と。

「うーん……もし年齢が20代前半だったら、出場後に治療をします。ただ、20代後半だったら……治療のためにオリンピックはあきらめざるを得ない、となるかな。そう考えると、今までもオリンピックのために治療をあきらめた選手がいたかもしれないし、逆にオリンピックをあきらめた選手もいたのかもしれませんね」

*本稿は実話をもとにしていますが、プライバシー保護のため一部脚色しています。

田澤健一郎(たざわ・けんいちろう)
1975年、山形県生まれ。大学卒業後、出版社勤務を経てフリーランスの編集者・ライターとなる。野球をはじめとするスポーツを中心に、さまざまな媒体で活動している。著書に『あと一歩!逃し続けた甲子園 47都道府県の悲願校・涙の物語』(KADOKAWA)、共著に『永遠の一球 甲子園優勝投手のその後』(河出文庫)などがある。

前回までの連載
【第1回】“かなわぬ恋”に泣いたゲイのスプリンター
【第2回】サッカー強豪校でカミングアウトを封じた少年
【第3回】“見世物のゲイ”にはならないプロレスラーの誇りと覚悟
【第4回】童貞とバカにされながら野球に没頭した専門学校の部員

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