――戦国時代、ポルトガル商人に国外へ売られた日本人奴隷。その取引にはイエズス会の宣教師も関与したが、秀吉は“人道的”な意識から自国の民を救おうと伴天連追放令を出したのか? 一方、朝鮮出兵後の長崎には朝鮮人奴隷があふれていたという。秀吉、キリスト教、奴隷をめぐる“本当”の状況を“グローバル”な視点で読み解く。
(絵/長嶋五郎)
宣教師を利用して貿易
豊臣秀吉の“外交”戦略
――1590年に日本統一を成し遂げた豊臣秀吉。では、“対外的”な戦略はいかなるものだったのだろうか?
海外のテクノロジーに期待
南蛮貿易
1510年、インド・ゴアを占領したポルトガルは南シナ海に進出し、マカオを拠点にアジアで貿易を始めた。43年にはポルトガル人を乗せた中国の船が種子島に漂着し、南蛮貿易がスタートする。日本は欧州産の鉄砲、火薬、毛織物のほか、中国産の生糸、絹織物を輸入。対して日本からは当時採掘が盛んだった銀を輸出した。こうした貿易のメリットは秀吉も重視していたと思われる。
宣教師は追放されなかった!?
キリスト教
フランシスコ・ザビエルによって1549年に伝来したキリスト教。大村純忠、大友宗麟、有馬晴信ら九州の大名は歓迎し、秀吉も容認していたが、87年に伴天連追放令を発令。翌年にはイエズス会領だった長崎を没収し、直轄領として南蛮貿易の富を独占した。ただ、宣教師はその後も通訳などとして使われ、追放は徹底されなかった。
老齢で判断力が狂った?
朝鮮出兵
1592〜93年の文禄の役と、97〜98年の慶長の役の総称。出兵の理由は、大名に与える領地が国内になくなったという説や、秀吉の思い上がり説など諸説ある。15万人以上の大軍を出したが、遠征費用は大名の自腹で負担が重く、次第に疲弊。大した戦果を上げられないまま秀吉が死去したため、撤退した。
伴天連追放令までは黙認
日本人奴隷
岡氏の研究によれば、多くの日本人奴隷の出身地は筑前、筑後、肥前、肥後、豊前、豊後、日向、大隅、薩摩。子どもが売買されることも多かった。傭兵など戦闘用の奴隷や、売春に従事する奴隷には高額な報酬を得た者もおり、終身契約でも蓄えたその収入を身請け代にして支払い自由になれたという。そんな日本人奴隷の売買を秀吉も認めていたが……。
16世紀の戦国時代、多くの日本人が奴隷となり、ポルトガル商人に海外へ売られた──。夫ルシオ・デ・ソウザ氏との共著『大航海時代の日本人奴隷 増補新版』(中公選書)がある東京大学大学院情報学環(史料編纂所兼任)の岡美穂子准教授によれば、少なくとも10年以上にわたり1万人以上の日本人奴隷が東南アジア、南アジア、ヨーロッパ、中南米に連れ去られたという。
15世紀半ば〜17世紀は、ヨーロッパでは大航海時代。日本では、1549年にイエズス会創設メンバーのひとりである宣教師フランシスコ・ザビエルが来航して以降、キリスト教の布教と共にポルトガル、スペイン商人との南蛮貿易が盛んになった。織田信長はこの南蛮貿易に注力していたが、豊臣秀吉は1587年、宣教師たちに国外退去を命じる伴天連追放令を出し、その中で日本人奴隷の売買を禁じた。ただ、朝鮮出兵(1592~93年の文禄の役、97~98年の慶長の役)の後は、日本人ではなく朝鮮人奴隷が売買されていた。なぜ、愛を説くはずの宣教師は奴隷売買にかかわっていたのか。秀吉は日本人を救おうとして宣教師を追放したのか──。岡氏に真相を聞いた。