(取材・文=須藤輝)
1971年に発売開始された丸美屋「麻婆豆腐の素」。(写真/Getty Images)
近年、“町中華”が注目を集めている。町中華とは、簡単にいえば昭和中期~後期に創業した個人経営の大衆的な中華料理店であり、ライターの北尾トロを中心に結成された「町中華探検隊」がブームの火付け役となった。そこで提供されるメニューはラーメンや餃子、炒飯をはじめ、レバニラ炒めや唐揚げなどの各種定食、果てはオムライスやカレー、カツ丼まで実に雑多であり、もはや“中華”から逸脱している。
もっとも、日本における“中華料理”のスタイルは本場・中国の料理とは異なっているというのはよく知られている。それは“日本風中国料理”とでも呼ぶべきもので、ある意味、町中華のメニューはもっとも大衆的な形でローカライズされた中国料理といえるかもしれない。では、中国から伝わった料理の数々は、いかにして日本化され、定着したのか――。
食文化に詳しく、外国から伝来した料理が日本で定番化する過程を探った『オムライスの秘密 メロンパンの謎 人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)の著者・澁川祐子氏に、まず日本風中国料理のルーツについて聞いた。
「日本は歴史的に中国からさまざまな影響を受けていて、奈良時代には“索餅(さくべい)”という素麺の原型が伝わったりしています。また、一口に“中華料理”といっても地方でまったく異なるため、いつの時代にどこの人が何を持ち込んだかという点でもバリエーションが数多くあります。よって、日本に中華料理が定着した経緯をひと続きの流れで説明するのは難しいですが、江戸時代の鎖国期に長崎で生まれた卓袱(しっぽく)料理が起点になっているとはいえるでしょう」
「長崎卓袱浜勝」のサイトより。
この卓袱料理は、中国だけでなく洋や和の要素もミックスされたものであるが、日本向けにローカライズされた中国料理という意味で、現在の日本風中国料理のベースになったといえそうだ。ただし、中華料理が日本に根づくのはまだ先の話であり、そこに至るまでに大きな役割を果たしたメニューが、ラーメンと餃子である。そして、澁川氏によれば「ラーメンも餃子も歴史的な出来事を機に世の中に広まった」という。
「まずラーメンに関して、日本の麺料理の歴史をさかのぼると、先述した素麺に始まり、以降、室町時代にはうどん、江戸時代に蕎麦が広まり多様化します。その後、幕末に横浜をはじめとする各地の港が開港されると、周辺に南京街(中華街)が形成され、そこで中国人が食べていた中華麺が“南京そば”として日本人にも広まり、明治末期には“支那そば”と呼ばれるようになります」(澁川氏)
現在の我々が食べているラーメンの原型は、明治43年(1910年)に浅草に開店した〈来々軒〉(1976年閉店)の看板メニューだった支那そばに見ることができるそうだ。
「〈来々軒〉の支那そばは、豚骨に鶏がらを加えたあっさりした醤油味のスープで、具はネギとチャーシューとシナチク。これが、日本の蕎麦にとてもよく似ているんです。本場中国の麺料理は、中華鍋で具材を調理するので一品料理という趣きがあります。一方、支那そばは独立したスープ、麺、具をどんぶりの中で組み合わせたもので、この具をトッピングする方式は、蕎麦に種物を乗せる食べ方と共通している。スープにしても、〈来々軒〉はタレをスープで割るという調理法を最初に採用した店だといわれ、これは蕎麦つゆが“かえし”と“だし汁”で作られるのと同じです」(同)
オーソドックスな醤油ラーメン。蕎麦のフォーマットを援用して生まれた。(写真/Getty Images)
要するに、中国由来の麺料理を、日本人になじみのある蕎麦のフォーマットに落とし込んだのがラーメンの始まりというわけだ。また、タレをスープで割り、具をトッピングするスタイルにより、いわゆるご当地ラーメンのようにバリエーションが生まれ、全国に受け入れられていったのではないかと澁川氏は見る。
「このラーメンが普及する大きなきっかけになったのが、大正12年(1923年)に起こった関東大震災。このとき、被災地の屋台で売れる料理としてラーメンが広まったんです。蕎麦も江戸時代から屋台でも売られていたので、蕎麦の作り方を踏襲したラーメンも同じく屋台で売りやすかったのでしょう」(同)