――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。
(写真/永峰拓也)
今月のゲスト
神里達博[千葉大学国際教養学部教授]
世界各地で猛威を振るう新型コロナウイルス・パンデミック。この脅威に、人類はいかにして立ち向かうのか? そして、このウイルスは人類に何を残すのか? 人類と感染症の戦いの歴史と併せて語り合う。
萱野 神里さんとはかつて東日本大震災を契機に日本における文明のあり方を考察した共著書『没落する文明』(集英社新書)を上梓しました。今回は、いま世界的な問題になっている新型コロナウイルスによるパンデミックについて(※編注 今回の対談は3月19日に収録)、そして人類と感染症との関係について、議論を交わしていきたいと思います。神里さんは科学史・科学論の専門家で、とりわけ“リスク社会”について研究されていますが、最初に手がけたのは感染症についての研究だったそうですね。
神里 BSE、いわゆる狂牛病の研究です。ヒトと牛の両方が罹患する人獣共通感染症が、社会にどのようなインパクトを与えたのか、科学論的な検討を行った研究がキャリアのスタートになりました。その後、03年のSARSや09年の豚由来の新型インフルエンザの発生、流行などについても関心をもって注視し、いくつかの論考を書きました。
専門家・政治への不信感とリスクコミュニケーション
萱野 今回の新型コロナウイルス感染症は、中国の武漢にある華南海鮮市場が発生源とされています。ただ、この発生源については、武漢にある世界トップレベルのウイルス研究所から漏出したのではないかという説も根強くあり、また中国政府からは米軍が武漢にウイルスを持ち込んだのではないかという主張さえなされています。発生源についてさえこのような錯綜した状況になっていることに対して、神里さんはどうご覧になっているのでしょうか?
神里 社会的な不安が広がっているときはデマやフェイクニュースも含め、さまざまな言説が広がるものです。これは専門家に対する不信感が高まっていることも影響しているでしょう。生物兵器説や米軍持ち込み説なんていうのはかなり極端な例ですが、日本国内でも「感染者数を少なく見せるために国がPCR検査をしないよう圧力をかけているのでは」といった疑念が繰り返し語られています。こういう点で、現在の新型コロナウイルスへの反応は3・11の福島原発事故に近いものを感じています。あの当時も放射線リスクの理解をめぐって世論が大きく対立した。社会的な状態としては、かなり共通性があるものになっているのではないでしょうか。
萱野 今回のパンデミックでは政府の専門家会議から出される意見と、テレビのワイドショーなどに登場する専門家の意見が食い違っている、ということもしばしば見られます。
神里 政府の発表やテレビの報道を受け取る一般の人たちから見ると、専門家たちの話が一致していない。すると当然、いったい何が正しいのかと不安になるわけです。
萱野 専門家への不信感ということで言えば、専門家の言うリスクと私たちが考えるリスクがあまりに乖離してしまっているということも、その不信感の背景にはあるのではないでしょうか。たとえば、2月半ばぐらいまでは、複数の専門家が「それほど怖がる必要はない」といった主張をしていました。「SARSやエボラ出血熱のような他の感染症に比べて致死率は低い」「重症化する例は少ない」「むしろ毎年流行している季節性インフルエンザのほうが死亡者が多い」などの主張です。しかし、一般の人たちからすれば、治療薬のない感染症に自分や家族がかかってしまうこと自体が恐怖なので、致死率がどれくらいといった確率を示されても、ほとんど安心材料にはなりません。こうした乖離に、専門家は少し無自覚なのではないでしょうか?