――サブカルを中心に社会問題までを幅広く分析するライター・稲田豊史が、映画、小説、マンガ、アニメなどフィクションをテキストに、超絶難解な乙女心を分析。
あなたが小学6年生の娘をもつ父親だとしよう。
あなたは、それなりにカルチャーリテラシーが高いという自負がある。村上春樹や『新世紀エヴァンゲリオン』を90年代に通過し、ゼロ年代の批評界隈や10年代以降のSNSの隆盛も、それなりにキャッチアップした。ネットの時流もそこそこ把握している。娘から「#metooって何?」と聞かれたら、簡潔に答えられる程度には。
あなたはある日、娘が毎月買っている「りぼん」(集英社)の連載マンガ『さよならミニスカート』が話題になっていることを知る。キャッチコピーは「このまんがに、無関心な女子はいても、無関係な女子はいない。」。編集長が、異例とも言える署名付きの「推薦」をしたことでも話題になった。
あなたはタイトルから内容を推測し、その批評アングルに手早く見当をつける。「ジェンダー方面ね。“女の子っぽさ”の押し付けに対する異議申し立てか。『りぼん』らしい問題提起だ」。あなたは「りぼん」の対象読者が小学校高学年から中学生女子であることだけでなく、競合誌の「なかよし」(講談社)に比べて、シリアスな社会問題やリアルな恋愛事情を扱う作品が載る雑誌だということを知っている。「『なかよし』は腐女子を育成し、『りぼん』はフェミ予備軍を育成する」と、まとめ記事で目にした記憶も掘り起こされた。
あなたは単行本を買って読んでみる。元アイドルが握手会でキ○ガイのファンに刃物で切りつけられたことをきっかけに引退、髪を短く切って男装にズボンを履いて普通の高校に登校している。これが主人公の神山仁那だ。作中では、現実のネット上で今この瞬間も議論が展開中の「女の子の受難」が、これでもかとばかりに俎上に載る。時流に則ったフェミ&ジェンダー論点きっちり全部乗せ。それらは、まるで“全オトコ”を仮想敵化したような男子たちの口から、醜悪なセリフの形をもって並べられる。
「変質者怖がってるくせに、なんでそんなスカート短けーの? そんなに怖いならスラックス履けよなー。結局さぁー、男に媚び売るために履いてんだろ?」
「握手で釣ってCD何枚も買わせてたんだろ? 女使って男釣って儲けてんだから、恨み買われて当然だろ。嫌なら最初からアイドルなんてやるなっつーの!」
「ブスに限ってチカン恐いとか騒ぐからさーっ」
「マジで女子って陰湿だよな! 怖ッ ちょっとは男子のサッパリ感見習えよな~~っ」
これはYahoo!のコメント欄ではない。12歳の我が娘も読む、マンガ雑誌のフキダシ内だ。そんな声に対して、仁那は徹底的に反発する。
「私は男に媚び売るような、バカな女じゃない」
「弱ぶって…男に守ってもらうような、そんな女と一緒にするな!」
「スカートは あんたらみたいな男のために履いてんじゃねえよ」
ここまでなら、ありがちな対立構図だ。ところが、ここに長栖未玖という仁那のクラスメートが登場する。彼女はわかりやすくモテ系女子だ。いわゆる「女子力が高い」。いつもニコニコ愛想が良く、男子受けする容姿。なによりフェミを振りかざさないのが、(男にとって)都合がいい。
しかしそんな未玖は――この種のキャラクター設定ではド定番だが――かなりの策略家だ。あえて処世術として「天真爛漫で可愛い女子」を振る舞っている。それゆえ、単刀直入にフェミを振りかざす仁那が、うっとおしくてしょうがない。未玖は仁那に対して敵意を剥き出しにしてくる。
「神山さんはずっと、何万人に向けて売ってきたんでしょ、女の子の『可愛い』を」
「どうして男子の部活にだけ女子のマネージャーがいるのかな。どうして女の子のアイドルはみんな30歳になる前に消えちゃうのかな。私は何も与えてやらない。この世界を利用して、奪う側に立ってるだけよ」
正義の主人公のアイデンティティクライシスを促すほどの、キレキレの問題提起。バットマンに対するジョーカー並みの、堂々たる悪役ぶり。それでいて、彼女はしれっと恐ろしいことを言う。
「女の人は男の人より楽して生きてるから、ワガママ言っちゃだめなんだよ?」
あなたは背筋が凍る。現代の少女たちが住む世界は、こんなにも地獄なのか? 仁那も未玖も決してバカじゃない。むしろ、それぞれの賢さで今いる世界を必死にサバイブしている。なのに、2人とも全然幸せそうじゃない。
仁那は外見も内面もすべてにおいて女性性を捨て去り、クラスの男子からはものすごい距離を置かれている。天に誠実に、自分に正直に、何者にも怯むことなく、勇気ある声を上げてはいるが、生物学的女性である自分が男装をしているエクスキューズからは一瞬たりとも解放されない。自分は何者なのかを問わない日はない。修羅の人生だ。
未玖は未玖で、素直で朗らかで陰ひとつない、旧時代的な(=男子が脅威に思わない)“女の子っぽい”女子を完璧に演じている。女性専用車両について「私はチカンなんてヘーキだから専用車両なんていらないし。男の人全員疑ってるみたいで、なんかヤだな」と発言する。そう言ったほうが男子たちの間で角が立たない、生きやすい世の中だと知っているからだ。
あなたは考える。我が娘には仁那と未玖、どちらのような生き方をしてもらいたいか。おそらく、教科書的な正解は仁那だ。あなたがいたく感銘を受けた村上春樹のイスラエルでのスピーチ、「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵があるときには、私は常に卵の側に立つ」に従うならば、たとえ割れてしまう危険があったとしても、誇り高い仁那であるべきだ。しかし、血反吐まみれで男たちに「正論」を吐き続ける我が子を見て、この子は幸せだと言い切れるだろうか?
かと言って、未玖は未玖でつらい。その生き方が世間でもっとも軋轢を生まないものなのだとしても、あまりに不憫すぎる。彼女は自分の「ほんとう」を生きていない。今は良くても、将来幸せになれるとは到底思えない。
そこで、あなたは思い出す。村上春樹が「人生で最も大切な小説」と公言する、『グレート・ギャツビー』の一文を。主人公ギャツビーが生涯かけて愛した人妻デイジーが、かつて女の子を出産した時に言った言葉だ。
「女の子で嬉しいわ。馬鹿な女の子に育ってくれると嬉しいんだけど。それが何より。きれいで、頭の弱い娘になることが」(村上春樹・訳)
仁那と未玖は別々の方向で賢すぎる。物事や世界が見えすぎている。そのせいで人生がつらい。ならばいっそデイジーの言うように、その他の“馬鹿な女の子”であるほうが実は幸せではないか?
あなたは葛藤する。無論、女子にとって理不尽で不平等なこの社会を変革するには、誰かがそのつらい役割を担って先導し、変えてゆかなければならない。だとしても、その“誰か”が、人柱が、どうして自分の娘でなければならないのか?
もしあなたに娘がいて、ひとかどの人物だとか、すごいインフルエンサーだとか、稀代の才媛だとか、気鋭の論客だとか言われなくてもいいから、ただ穏やかに健やかに育ってほしいと願う親だとして。仁那でも未玖でもない、ゆるーいノンポリな“馬鹿な女の子”になってほしいと願うのは、罪なことだろうか? でも、だって、この2人の生き方って、どっちも地獄だぜ?
であれば我が娘には、ただ無批判に、韓国コスメに目の色を変え、手持ち扇風機をブンブン言わせながら、タピオカミルクティーを飲むような、「安全な」人生を歩んでほしい。「壁と卵」に感動した人間としては、思想的堕落に違いないのだが。
稲田豊史(いなだ・とよし)
編集者/ライター。キネマ旬報社を経てフリー。『セーラームーン世代の社会論』『ドラがたり のび太系男子と藤子・F・不二雄の時代』(共に単著)、『ヤンキーマンガガイドブック』(企画・編集)、『押井言論 2012-2015』(編集/押井守・著)、『ヤンキー経済 消費の主役・新保守層の正体』(構成/原田曜平・著)など。編集担当書籍に『団地団 ~ベランダから見渡す映画論~』(大山顕、佐藤大、速水健朗・著)、『全方位型お笑いマガジン「コメ旬」』(ラリー遠田:責任編集)がある。
『さよならミニスカート』
(牧野あおい・著/集英社)既刊2巻
連載は「りぼん」2019年6月号を最後に休載中。単行本未収録分の2話では、未玖のイケメン兄が教育実習生として登場。徹底した合理主義者、リア充の世渡り上手として描かれる一方、怪しげなヤリサー的な団体の“部長”であることが判明。今までのジェンダー&フェミ志向の流れからして、『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ)的な胸熱展開を期待させる。