萱野稔人と巡る【超・人間学】――「人間は“教育”によって生かされている」(前編)

――人間はどこから来たのか 人間は何者か 人間はどこに行くのか――。最先端の知見を有する学識者と“人間”について語り合う。

(写真/永峰拓也)

今月のゲスト
安藤寿康[慶應義塾大学文学部教授]

萱野稔人の対談企画、今回のゲストは行動遺伝学、進化教育学、教育心理学、生物学的視点から教育についての研究を行っている安藤寿康氏。「人間にとって教育とは。なぜ人間は教育をするのか」を問う。

“教育”は人間の本質

萱野 安藤先生の著書は以前から読ませていただいており、教育学の分野で非常にオリジナリティのある仕事をされていると感じていました。特に私が面白いと思ったのは「教育とは何か」という大きな問いを“人間”の根幹に関わる問いとして考察されているところです。

 一般に教育学といえば、教育という枠組みそのものを前提として、いかに子どもの学力向上や人格形成を果たしていくのかを探求する学問として位置づけられています。しかし安藤先生は「そもそも教育とは何なのか」「なぜ人間は教育という営みをなすのか」といった問いから議論を展開されています。そのアプローチがとても新鮮だと感じました。

安藤 教育学関係者の教育に関するオーソドックスな議論を聞きながら、いつもモヤモヤしていたんですよ。教育がなんのためにあるのかという最初の出発点が見えていないところで議論してもなぁ……という感じで。それと私自身、いちおう大学教授になっていますが、勉強に関しては落ちこぼれという感覚があって、学校教育のあり方にずっと疑問を抱いていたんです。一生懸命に勉強してもあまり学力が向上しなくて、「なんのためにこんな勉強をしなきゃいけないのか」と思いつつ、国が国民にやれといっているんだから、きっとよいことを教わっているに違いないと自分にむりやり言い聞かせながら……。よっぽど頭のいい人を除いて、受験に取り組んだことのある人なら誰でも同じような思いを抱いたことがあると思います。

 改めて振り返ってみても、自分が受けてきた学校教育がすべての面において本当に役に立ってきたのか。国民全員が教育というものに当たり前に投入されていますが、どこかにおかしいところがあるんじゃないかという思いがあったんです。

萱野 みずからの体験の中に教育そのものの存在を疑う契機があったんですね。なぜそれが存在するのか、という問いはきわめて哲学的です。この場合ですと、なぜ教育などというものが存在するのか、という問いですね。

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