──年齢不詳、職業不明、痛風持ち……老獪タカスが、自らの五臓六腑をすする気合で過激に告白&提言
「岡留安則を賑やかに送る会」に出席。本当に賑やかにすべく、気に入らないやつを殴ろうと思っていたが、誰もが私から距離を取る。常識的な集いになって、岡留も物足りなかったはずだ。
医師で満鉄の初代総裁、外務大臣や東京市長を歴任した後藤新平の言葉「人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして、報いを求めぬよう」を信条に生きている。
ヘアヌード全盛期、ベストセラーズ(KKベストセラーズ)、リイド社、竹書房、ワニブックスなどなど数々の出版社と組んだが、プロデューサーだった私自身は意外と儲けていない。「まずは女優に」がモットー。次に、当時、荒木経惟が「食えない」というのでカメラマンに。顧問弁護士は「すぐに印税契約にすべき」と言ったが。当時、おもちゃのトミーを退社して出版業に進出したばかりの私は、女優ファースト、カメラマンファーストで勝負をかけた。
女優ファーストの真骨頂は島田陽子。90年代、島田は内田裕也さんと一緒に暮らしていたが、金回りが破綻して横浜の豪邸を売却し、苦労していた。ある人の紹介で私のプロデュースのもとヘアヌードを出版する決意をし、まとまった金を手にした。裕也さんとパーティで会ったときに「君が高須か、ありがとう」と言われた。裕也さんは東京都知事選出馬など、自分がやりたい放題やったために借金をつくり、島田に苦労をかけたことを知っている。ファンキーでハンサムだった彼はよくモテていたし、島田もスカッとしたいい女だった。
当時、加納典明は情報番組のコメンテーターを務めていたが、島田のヌードをチラッと見て「鶏ガラみたいなヌード」と評した。私はマイナスもPRのうちだと目をつむったが、裕也さんはある雑誌に「ふざけんじゃない。女が裸になるとは一大事、てめえ待ってろ、家にいくぞ」というようなことを書き、加納をビビらせた。
裕也さんは、晩年入れ歯もガタガタであんな顔になった。金があればちゃんと歯を入れるだろう。彼にとってはそんなことはどうでもよかった。人の世話にならぬよう世話をして報いを求めなかった。自ら企画し、主演した映画『コミック雑誌なんかいらない!』(1986年)ではビートたけしを起用したが、その後、たけしが映画監督になっても、たけしは裕也さんを起用しなかった。普通はギブアンドテイクで使うはずだが、恨みごとは言わない。