学術人類館・アイヌほか(1903年/著者蔵)
1903年に大阪の天王寺で開催された第五回内国勧業博覧会の場外余興・学術人類館では、3月10日の開館後も展示内容をめぐってゴタゴタが続き、場当たり的な軌道修正がその都度行われた。開館前には清国、そして開館後に朝鮮、沖縄からの抗議が巻き起こったため、当該地域の人々が展示から外される騒ぎになった。とりわけ4月上旬から「琉球新報」が繰り広げた抗議キャンペーンは激しかった。抗議内容を要約すると、まず狭く粗末な茅葺きの小屋やそこに置かれていた小道具などの演出が、展示された2人の沖縄女性を野蛮に見せているということ、2人が甘言に乗って待遇面で騙されたのではないかということ、動物の見世物のように鞭を使用して軽蔑的な口調で説明されていたこと、そして「北海道土人」などと呼ばれたアイヌや「生蕃」と蔑称されていた台湾原住民らと同列に扱われて展示されたという類いのものだった。
「琉球新報」の主筆・太田朝敷による4月11日付の「人類館を中止せしめよ」と題された社説では、「是れ我を生蕃アイヌ視したるものなり我にするの侮辱豈これより大なるものあらんや」と激しい抗議がなされ、その後も連日のように人類館が取り上げられた。この社説に代表されるように、「琉球新報」では、内地の日本人と沖縄県人との間に引かれた分割線を引き直し、自分たちが上位カテゴリーに包摂されることの必要性が幾度となく主張されたのである。