中国やイスラム圏の同性愛者も被写体に……差別に抗うより自然体がクール! 進化する“LGBT写真”の美意識

――日本でも浸透するようになったLGBTという言葉。ただ、写真史を振り返れば、古くからゲイの写真家はいたし、ホモセクシュアルの人々が被写体になることもあった。では、現在に至るまでLGBTと写真の関係はどう進化/深化してきたのか――。各時代でキーパーソンとなった写真家たちを取り上げながら、その変遷を見てみよう。

古代をイメージした少年ヌード【1】ヴィルヘルム・フォン・グレーデン『Wilhelm von Gloeden: Erotic Photographs』Aperture/1972年1856~1931年。19世紀、ドイツの官僚の家に生まれた写真家。20歳のときに結核を患い、療養のためにイタリアのシチリア島へ移住。そこで、古代ギリシャ・ローマ世界をイメージした牧神などに扮する少年たちのヌードを多く撮影。

 去る5月5・6日、日本最大のLGBTの祭典である東京レインボーブライドが代々木公園で開催された。今やLGBTという言葉も広まり、その権利運動も盛んであるが、写真史の中でLGBTの表象はどう変遷してきたのか? 『ジェンダー写真論 1991-2017』(里山社)の著者で写真評論家の笠原美智子氏は、こう話す。

「古くは、19世紀に少年のヌードを撮ったヴィルヘルム・フォン・グレーデン男爵【1】というゲイの作家がいます。ただ、1970年代までは主にヘテロセクシュアル(異性愛)の人たちが、ゲイやレズビアンのイメージを形作っていました」

 例えば、60年代に女性写真家ダイアン・アーバス【2】が性倒錯者を撮っているが、彼女は必ずしも重要ではないという。

フリークスとしての性的弱者【2】ダイアン・アーバス『Diane Arbus: An Aperture Monograph』Aperture/1972年1923~71年。40年代に写真家としてキャリアをスタートし、18歳で結婚した夫アランと共に有名ファッション誌で活躍。その後コンビを解消し、60年代にフリークスに魅せられて彼らの写真で高い評価を得るも、48歳で自殺。

「彼女の主題は小人や巨人といった“フリークス”と呼ばれる人たちで、性倒錯者もフリークスとして、つまり自分とは別世界にいる存在として見ていました。だから、当事者性はありません」(笠原氏)

 その後、69年に米ニューヨークで起きたストーンウォール事件(同性愛者一掃のため酒類販売法違反の名目で会員制ゲイ・バー「ストーンウォール」に警察が踏み込んだことに対し、同性愛者たちが暴動を起こした事件)で転機を迎える。

「これを機に、セクシュアル・マイノリティの権利運動が展開されます。以降、大学でのゲイ・レズビアン・スタディーズや作家の実践が本格化し、一般のセクシュアル・マイノリティの人も徐々にカミングアウトできるようになった」(同)

ゲイのセックスをファインアートに【3】ロバート・メイプルソープ『Mapplethorpe』アップリンク/1994年1946~89年。70年代からアートにおける性表現を追求し、極めて直截的に男性ヌードやSM行為などを写した写真で物議を醸し続けたが、エイズにより42歳で死去。パティ・スミスと長年の親交があったことでも知られている。

 その流れの中でもっとも画期的だったのは、ニューヨーク出身のゲイの写真家、ロバート・メイプルソープ【3】の作品群だ。

「彼の偉大さは、ゲイとしてのセックスをファインアートの領域で認めさせた点にあります。ただ、彼の撮る美しく均整のとれた男性ヌードは“理想美”であり、ゲイの身体像のステレオタイプを作ってしまった。それは、紋切り型の女性ヌードの反転図のようでもあります」(同)

 一方、メイプルソープと同時代のゲイの写真家ピーター・フジャー【4】もゲイとしてのセクシュアリティを重要な主題にしていたが、両者には差異があった。

ゲイのあるがままの身体【4】ピーター・フジャー『Lost Downtown』Steidl/2016年1934~87年。60年代後半に米ニューヨークにスタジオを構え、70年代からイースト・ヴィレッジに集う人々を撮影。デヴィッド・ヴォイナロヴィッチとは恋人/師弟関係にあり、メイプルソープやナン・ゴールディンにも影響を与えた。

「彼が写したのは、普通のゲイ男性のあるがままの身体。その意味で、センセーショナリズムからは離れた写真であり、ステレオタイプなゲイのイメージを裏切るものでした。彼の弟子であり同じくゲイのデヴィッド・ヴォイナロヴィッチ【5】も、その系譜にあるといえます」(同)

 こうしてゲイの写真家が活躍するようになったが、ある問題が影を落とす。

エイズ・アクティビズム【5】デヴィッド・ヴォイナロヴィッチ『David Wojnarowicz』Aperture/2015年1954~92年。2歳のときに両親が離婚、16歳でニューヨークの高校を中退してストリートで暮らし、放浪の末にイースト・ヴィレッジに戻り、81年にフジャーと出会う。80年代後半にエイズを宣告されて以降、アクティビストとしても活動。

「80年代に入った頃、セクシュアル・マイノリティの権利運動に対するバックラッシュが起きます。アメリカではロナルド・レーガン、イギリスではマーガレット・サッチャーという保守的な政治家が政権を担い、そこへエイズ・パニックが発生。これにより、キリスト教右派を中心に『エイズは(ゲイへの)天罰』といったバッシングも。ゲイの作家は、自分はどの立場から、誰に表現を発信するのか意識せざるを得なくなりました」(同)

 メイプルソープもフジャーもヴォイナロヴィッチも、エイズが原因で死去している。とりわけヴォイナロヴィッチは死の床にあるフジャーを写真に収めており、彼自身もエイズを宣告されてからは頻繁にエイズを主題にした作品を発表した。

ゲイの日常を撮ったバイセクシャル【6】ナン・ゴールディン『The Ballad of Sexual Dependency』Aperture/1986年1953年~。70年代からボストンでゲイやレズビアンの友人を撮り始める。その後、ニューヨークに移り、86年に発表した『The Ballad of Sexual Dependency』が反響を呼ぶ。被写体である友人の多くをエイズなどで失っている。

 また、エイズと共に生きた作家としては、バイセクシュアルの女性写真家ナン・ゴールディン【6】がいる。

「彼女は同性愛者のコミュニティに属し、自身の恋人や友人もエイズで他界。被写体との距離が近く、ゲイの人たちの日常を同じ目線で記録しました」(同)

46本の鍼を刺した自撮り写真【7】キャサリン・オピー『Catherine Opie: Keeping an Eye on the World』Walther König/2018年1961年~。90年代に地元ロサンゼルスに住む同性愛者の友人たちを撮影し、注目を集める。レザーマスクを被り、両腕に計46本の鍼を刺し、胸に「Pervert(倒錯者、変質者)」と彫り込んだセルフポートレートがつとに有名である。

 あるいは、レズビアンにも重要な写真家がいる。90年代に米西海岸のアンダーグラウンドな同性愛者コミュニティを撮ったキャサリン・オピー【7】がそうだ。

「被写体はタトゥーやボディピアッシング、レザーファッションで身を覆う人々で、その姿はヘテロの人がイメージする紋切り型の同性愛者像と重なります。しかし彼女は、むしろそのイメージを過剰に装うことで、偏見や抑圧を与え続ける社会での彼女らの傷を示しました」(同)

 かようにLGBTの写真家たちは自らのセクシュアリティと向き合ってきたが、日本にはどんな作家が登場してきたのか。

パートナーとの自然な関係【8】森栄喜『intimacy』ナナロク社/2013年1976年~。90年代後半から男性ポートレートを中心に活動。2013年、当時のパートナーとの日常を1年間撮影した写真集『intimacy』で第39回木村伊兵衛写真賞を受賞。同性婚をテーマにしたプロジェクト『Wedding Politics』も話題に。

「80年代から活動し、今も多大な影響力があるアーティスト・グループにダムタイプがいます。また、イトー・ターリさんのようにレズビアンだとカミングアウトして作品を発表する作家も。00年代になってミヤギフトシさんや森栄喜さん【8】のようなアーティストが現れました。彼らは自身のゲイというセクシュアリティを自然体で表現し、メイプルソープらのような過剰さがない。つまり、ゲイであることは自然だと考えています」(同)

マッチョな肉体の写真から病的で繊細な表現にシフト

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