【日本代表唯一のメダル獲得を牽引したサッカー選手・小城得達】が語る東京オリンピック

2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?

おぎ・ありたつ

1942年12月10日生まれ。広島県広島市千田町出身。2歳の時に被爆。高校入学と同時にサッカーを始め、中央大学在学中からサッカー日本代表に定着するようになる。64年東京五輪でのベスト8進出、68年メキシコ五輪での銅メダル獲得に大きく貢献した。大学卒業後は東洋工業に入社し、中心選手として同社サッカー部を日本サッカーリーグ4連覇に導く。現役引退後は同部の監督も務め、現在は広島県サッカー協会会長に就いている。06年、日本サッカー殿堂入り。17年、旭日双光章を受章した。


 1945年8月6日8時15分17秒、米軍機B29が広島市に、ウラン235型原子爆弾“リトルボーイ”を投下し、一瞬にして2キロ四方を焼き尽くした。

 小城得達は、爆心地から近い広島市中区千田町の出身。2歳の時に被爆するも生き残り、高校から本格的に始めたサッカーで64年東京・68年メキシコ五輪に連続出場し、中心選手として活躍した。

「入学した広島大学附属小学校が、サッカーが盛んで。中学校では軟式野球部に入ったんだけど、高校に上がったら野球部がなくて。そこから本格的にサッカー部に入って、トレーニングを始めたんです」

 当時の広島県では、小城が所属していた広島大学附属高校、修道高校、国泰寺高校、山陽高校などサッカーの強豪校が多くひしめき合い、全国から広島県に注目が集まっていた。全国大会では優勝候補筆頭。それほどこの4校の争いは熾烈だった。同級生には、後に日本代表でもチームメートとなる船本幸路や桑原楽之がいた。その中で小城は、高校からサッカーを始めたにもかかわらず、1年生の時からレギュラーとして公式戦に出場していたという。

「高校から始めたことはハンディだったけれども、小学校からボールは蹴ってたわけだから。それも僕だけじゃなくて、他の学校でも高校からクラブに入って試合に出ていた人もたくさんいたと思うよ」

 当時、まだまだ日本ではマイナー競技だったサッカーがなぜ、広島で盛んに行われていたかには理由がある。1919年、広島の似島でサッカーを嗜んでいたドイツ人捕虜と広島高等師範学校の学生とで、日本初の“サッカー国際試合”が開催された記録が残っている。ここでサッカーを学んだ師範たちが広島県内でサッカーを広めていったのだ。とはいえ、現代のサッカーとの隔たりは大きかった。

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