【現代「JUDO」の歴史と共に歩んできた柔道家・金 義泰】が語る東京オリンピック

2020年に五輪開催を控える東京と日本のスポーツ界。現代のスポーツ界を作り上げ、支えてきたのは1964年の東京五輪で活躍した選手たちかもしれない。かつて64年の東京五輪に出場した元選手の競技人生、そして引退後の競技への貢献にクローズアップする。64年以前・以後では、各競技を取り巻く環境はどう変化していったのか?そして彼らの目に、20年の五輪はどう映っているのか――?

キム・ウィテ

[柔道] 中量級3位/銅メダル獲得

1941年6月2日生まれ。兵庫県神戸市出身。在日韓国人二世として生まれ、日本名は山本義泰。中学の時に柔道を始め、神港学園から天理大学へ進む。61年の世界選手権から韓国代表として国際大会に出場するようになり、64年東京五輪に出場し、銅メダルを獲得した。72年ミュンヘン五輪に出場した後、現役を引退。母校の天理大学で指導者の道へ。76年モントリオール五輪では柔道韓国代表監督を務め、韓国のメダル獲得に貢献した。

 9月頭に閉幕した、世界柔道選手権。2020年に東京での五輪開催を控え、66キロ級の阿部一二三をはじめ、日本は大会最多となる8個の金メダルを獲得。井上康生監督の下で研鑽を積んだ、日本人選手の活躍にスポットが当てられたが、リオ五輪銅メダリストの永瀬貴規や羽賀龍之介が早々に敗退するなど、必ずしも日本人だけが勝てる競技ではなくなって久しい。国際柔道連盟が2007年に発表した調査によると、単純に競技者数だけを比べても日本の約20万人に比べ、ブラジルが約200万人、フランスが約50万人と、他国の後塵を拝しているのが現状であり、今や「JUDO」は世界共通語となっている。

 だからこそ、柔道ほど日本人が感情移入しやすい種目はないだろう。日本発祥の競技で、ここまで国際化した種目は他にない。その出発点は、間違いなく1964年東京五輪だった。当時は「日本が、確実に金メダルを獲得できる」と考えられた柔道を五輪種目として認めてもらうため、大幅に欧州寄りのルールに改正。それまでは体重制限なしの無差別1階級のみで行っていたが、体重別にして4階級制を設けたのは、64年の東京五輪が初である。その後幾度ものルール変更を経て、女子柔道も追加され、男女ともに7階級が設けられることに。先の世界選手権では、試合時間を4分に変更。さらに技ありを2度取れば一本とする「合わせ技一本」も廃止など、またも大幅なルール改正が行われた。これは「一本」を積極的に取りに行くよう選手を促し、テレビ中継のコンテンツとしてエンターテインメント性を強めるための、欧米主導の改正であったといわれている。

 柔道は、間違いなくその裾野を広げている。だがそれを、韓国代表として64年東京五輪柔道中量級に出場した金は、苦々しい思いを抱いて眺めていた。

「私が学生選手権をやっていた頃、一試合は15分でした。今の学生に15分やらせたら死によるでしょ。でも柔道の勝敗を決めるには、最低6分は必要です。あの頃は、息が詰まるようなにらみ合いがあったんですよ。それに試合を見ていて、退屈するような人なんていなかった、『すごい気迫だな』っていうのが、横で見ていてもわかりました。そういうものが、今の柔道からはなくなってしまいました」

 東京五輪に端を発した柔道国際化の歴史――それは、めまぐるしいまでのルール変更の歴史でもある。そしてその過程は、奇遇なことに、金の柔道人生ときれいに重なっている。

 41年、第二次世界大戦の最中、金は在日韓国人二世として神戸で生まれた。45年の敗戦後、日本で占領政策を実施するために設けられたGHQは、その一環として、柔道を含む、あらゆる「武道」を禁止。当時は国策に基づいて、武道の再編・統合がなされ、大日本武徳会が日本の柔道を統括する全国組織であった。武徳会が主催する柔道の全国大会が最も権威あるものとして高く評価されていたが、GHQの指導により解散を余儀なくされている。そんな折、“柔道は「武道」ではなく「スポーツ」である”、そう唱えて柔道の壊滅を防ぎ、学校教育として普及させたのが、嘉納治五郎を長とする講道館だった。これを機にただの町道場でしかなかった講道館が、現在まで日本柔道会の頂点に立つことになる。

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