戦死者たちの肖像(上)

「日清戦争実記」第37編(博文館/1895年8月27日)に掲載された戦死者の肖像写真。

 南スーダンでの国連平和維持活動(=PKO)に参加している自衛隊の日報問題がとどめとなり、ようやく稲田防衛相が辞任した。政府と防衛省による日報の組織的な隠蔽とその責任をうやむやにするための幕引きとなったが、内閣改造をしたところでこの政権の隠蔽体質が変わるとも思えない。自衛隊の派遣条件であるPKO参加5原則に基づけば、自衛隊が活動する場所では、戦闘が行われていてはいけないし、ましてや戦死などはあってはならない。カンボジア以降、これまで海外に派遣された部隊は、一度も引き金を引くことなく、(殉職者はあっても)戦死者も出ていないことになっているが、憲法9条下における「平和の維持」は、累々たる戦死者の屍の上に築かれたものだ。

 日本が大量の戦死者を出した最初の対外戦争は、日清戦争であった。明治維新後、もともと国土防衛のために設立されたはずの日本陸海軍は、朝鮮半島に触手を伸ばす過程で外征軍へと変化し、1894年には、日清戦争を勃発させる。戦地の様子や兵士たちの活躍は、新聞や博文館から月3回発行されていた「日清戦争実記」などを通して国民に伝えられた。「日清戦争実記」は、写真製版の第一人者である小川一真が博文館に働きかけて1894年に創刊された雑誌で、網目銅版印刷による口絵ページが設けられていた。このページには、日本と清の主要人物の肖像写真や出征軍人の肖像写真、戦地や日本の軍備を紹介した写真などが掲載され、これが評判となって空前の売り上げにつながったといわれている。

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2024.11.22 UP DATE

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