――日本全国のみならず海外にも一大観光都市として知られる京都。だがその実、この都市が明治元年に首都というポジションを喪失して以降、現在に至るまでを経済的に支えてきたのが観光ではなく工業であることは、京都の外側の人間からはあまり知られていない。京都の意外な歴史を振り返りながら、この“古都”がいかにして作られてきたのか、そのためにどのように人とカネが動いてきたのか、関係者たちの言から紡いでゆく。
今、京都に対する毀誉褒貶の声が渦巻いている。「千年の古都のいやらしさ、ぜんぶ書く」と謳った新書『京都ぎらい』(朝日新書/井上章一)が「新書大賞2016」1位を獲得、大きな話題となった。一方で、15年には京都府内の年間観光客数は過去最高となる8375万人を記録(府発表)。同年から2年連続でアメリカの有力旅行雑誌「Travel+Leisure」の「ワールドベストシティ」ランキングで1位に輝くなど、華々しい評価を得た。本稿では、そんな京都の本当の姿に光を当ててみよう。
近年、京都に観光客が増えている背景には、外国から日本を訪れる“インバウンド需要”の高まりがある。京都の外国人観光客数も右肩上がりで、府内の外国人宿泊客数は2年連続で過去最高を記録した(15年は約187万人)。ことほどさように、京都といえば“観光都市”。だが、こうした一般的なイメージとは裏腹に「明治時代の日本近代化以降、京都は内陸型工業都市として発展してきたのです」と語るのは、建築史家で関西の街の都市計画史に造詣の深い橋爪紳也氏だ。
「京セラやオムロン、島津製作所といったハイテク産業があるように、大量生産の業態ながら、付加価値の高い製品を作るメーカーが多数集積しています。現在、京都地域の総生産において観光業が占める割合は2~3割ですが、20年ほど前は1割程度にすぎなかった」(橋爪氏)
事実、京都の近代史を紐解いていくと、1869年の東京奠都(遷都)以降、90年に琵琶湖の疏水が開通、91年に日本初の水力発電所が開業し、95年には全国初の市電が開設など、エネルギーや交通インフラの整備は日本国内でも先んじていた。同95年には「内国勧業博覧会」が催され、産業都市としての顔を顕著に見ることができる。先に挙がった企業のほかにも、任天堂、ワコールホールディングス、ローム、日本新薬、日本電産、堀場製作所……と、そうそうたる企業が今も拠点を置いている。経済産業省の工業統計(06年)によれば、京都市の製造品出荷額等は内陸型都市としては愛知県豊田市に次ぐ2位につけている。明治時代以降、京都が“ものづくりの街”として連綿と栄えてきたことがわかるだろう。
大阪万博で京都が栄える?高度経済成長期の“発見”
そんな京都に“観光都市”というイメージが立ち上がってきたのは、いつ頃からだったのか? 橋爪氏は、その時期を大きく分けて“大正~昭和初期”と“高度経済成長期”に見いだす。