法の恣意性とドラッグ――それは、なぜ“悪”なのか?

法と犯罪と司法から、我が国のウラ側が見えてくる!! 治安悪化の嘘を喝破する希代の法社会学者が語る、警察・検察行政のウラにひそむ真の"意図"──。

今月のニュース

清原和博 シャブ逮捕
2016年2月、元プロ野球選手の清原和博が、自宅で覚せい剤約0・1グラムを所持していたとして警視庁に現行犯逮捕され、覚せい剤取締法違反(所持、使用)の罪で起訴された。取り調べに対し、本人は容疑を認めている。さらに同年4月には、未成年のスノーボード男子選手2名の大麻使用が発覚。スポーツ界への違法薬物の蔓延と管理体制の甘さに対する批判が高まっている。


 違法薬物問題で揺れるスポーツ界。2016年2月、元プロ野球のスター選手・清原和博が覚せい剤取締法違反で逮捕、起訴されたのに続き、4月には、未成年のスノーボード男子選手2名が遠征先のアメリカ・コロラド州で大麻を使用していたことが発覚。同州では21歳以上の娯楽用大麻の使用が認められているものの、世界アンチ・ドーピング機関や全日本スキー連盟では厳しく禁じられており、2選手には同連盟から会員・競技者登録の無期限停止などの処分が下されています。

 過去の例から見て、清原被告の球界復帰は絶望的、スノーボード2選手の18年平昌五輪への出場も難しくなりました。法律であれ業界内のルールであれ、“悪”とされていることをしたのですから、彼らが法的・社会的な制裁を受けるのはやむを得ません。

 しかし同時に、こんな疑問を抱いている人も多いのではないでしょうか? 薬物を使用するのがそれほど悪いことなのか、そもそも法が特定の薬物を“悪”とみなす理由はなんなのか、と。そして、実はこの問いこそが、現在の薬物規制というものの核心をついている、と私は思う。そこで本連載では2回にわたり、薬物について考察しますが、今回は、法がいかなる論理によって、薬物を“善”と“悪”とに峻別しているかについて考えてみましょう。

 歴史的に見ると、現在規制対象となっている薬物の中には、医療薬や嗜好品として開発され、時代や場所によっては合法的に使用できたものが含まれています。例えば覚せい剤は、19世紀末~20世紀初頭に誕生し、日本でも二次大戦中、航空兵や特攻隊員に対して、士気高揚や疲労回復のための“兵器”として投与されました。さらに一般向けにも、大日本製薬(現・大日本住友製薬)や武田薬品工業といった製薬各社から、「ヒロポン」「ゼドリン」などの商品名で製造・販売されていたことは知られています。

 薬物は、芸術の分野においても珍重されてきました。画家なら、コカインやアヘンなどを常用しつつ「エコール・ド・パリ」の中心人物となったアメデオ・モディリアーニ、アルコール依存の中で「白の時代」と呼ばれる作品群を描いたモーリス・ユトリロなど。音楽家では、幻覚剤LSDやマリファナを使用、もしくは題材として数々の名曲を生み出した、ビートルズやドアーズ、ボブ・マーリーが有名です。

 また、日本のマンガやアニメなどの中にも、薬物の影響を感じさせる作品は存在します。モンキー・パンチの『ルパン三世』(双葉社)や大友克洋の『童夢』(同)、『AKIRA』(講談社)などには、薬物の世界を視覚化したとおぼしき場面が出てきます。

 このように、規制対象とされている薬物の多くがある種のメリットを有しているのは事実です。であれば、それこそ“用法用量を守って正しく”使えばいいのではないか、という主張にも一理あるように思える。しかし、規制側としてはそうはいかない。国家の治安維持という側面において、メリットを上回るデメリットがあると考えているからです。

 では、それはいかなる論拠によるのか? まず第一には、精神的・身体的な依存性です。例えばヘロインは、強烈な快感を得られる半面、きわめて強力な精神・身体依存性を有している。ゆえに断薬が難しく、確実に心身を蝕んでいく。だから取り締まるのだ、というのが規制側の主張です。

 ところが現実には、依存性が高くても規制対象になっていない薬物が存在します。その代表格がタバコとアルコール。未成年者に対する規制を除き、世界中で合法とされているこの2つは、コカインや覚せい剤よりはるかに依存性が強く、しかもさまざまな病気との関連が実証されている。要するに、薬物を規制するか否かのラインは、必ずしも依存性の強弱だけで決められているのではないわけです。

 規制側の第二の論拠は、犯罪の誘因になること。確かに、アンフェタミンなどの覚せい剤やLSD・MDMAなどの幻覚剤は、幻覚や幻聴などを引き起こし、ときに使用者を錯乱状態に陥らせることがあり、暴力犯罪の要因となり得る。実際、81年に東京都江東区で、翌82年に大阪市西成区で発生した無差別殺人事件は、いずれも覚せい剤常用者による犯行と判明しています。

 ただしそうした事件は、国家の治安維持という大局からいえば、無視できるほどのレアケースです。それをいうならアルコールはどうでしょう? WHOの06年の報告によると、ロシアでは殺人で逮捕された加害者の約4分の3が、犯行直前に酒を飲んでいたという。アルコールと暴力犯罪の因果関係は世界中で認められているのです。そんな“危険な薬物”は野放しなのに、ごくまれな犯罪の誘因になるという理由で覚せい剤や幻覚剤を厳しく取り締まるというのは、整合性に欠けるといわざるを得ません。

 そして第三の論拠、いわゆるゲートウェイ理論(飛び石理論)。これは、それ自体はさほど実害のない薬物でも、より依存性や副作用の強い薬物の使用へとつながる、という考え方です。この理論は、1940年代以降、大麻の有害性を訴えるためにアメリカの規制当局によって用いられるようになり、日本においても、いわゆるソフトドラッグ規制に関する警察の見解などでしばしば引用されています。

 しかし、この理論の真偽についても議論は分かれています。それどころか、大麻などが他の薬物へのステップとなっていることを示すデータはない、とする研究結果すら報告されている。つまり、この第三の論拠も、薬物規制の理由としては薄弱なのです。

 ではいったい、薬物規制における“悪”とはなんなのか? 結局のところそれは、窃盗や殺人のように、ある程度の普遍性を有する“悪”だからこそ法においても“悪”とみなす、というものではなく、文化的・社会的背景を踏まえ、法が“悪”と規定するからこそ罰せられるべき“悪”となる、というものなのです。現在は厳しく規制されている覚せい剤が、半世紀ほど前までは市販されていた。あるいは日本では違法である大麻が、オランダをはじめとする欧州各国やアメリカの一部の州では合法である。つまり、「何をもって悪となすのか」という基準は、かように時と場とに左右され、その時、その場によって便宜的に“善”と“悪”とに峻別されているに過ぎない、極めて恣意的なものだといえるわけです。

 前述の通りアメリカの法においては薬物に対して比較的高い寛容性が見て取れるのは、この国の銃規制の問題と同様、国家は極力個人を法で縛るべきではないという、この国によく見られる近代主義的なものの貫徹の結果という言い方も可能でしょう。

 法規制におけるそうした恣意性は、日本においても見て取れます。精神に影響を与えるものはすべて“薬物”なのだとすれば、タバコやアルコールはもちろん、カフェインを含むコーヒーやお茶ですら規制の対象となり得る。しかし、歴史や文化、国民生活の実情を考えたとき、それらを法的に“悪”としてしまうことは現実的でしょうか? ことは、純粋な有害性だけで結論付けられるものではないのです。

 この構造は、“こんにゃくゼリー規制論”と非常によく似ています。00年代半ば以降に窒息死亡事故が続いたこんにゃくゼリーに対しては、国会からメディアまで、国を挙げてのバッシングが展開されました。しかし、日本の伝統食である餅については、規制される気配もない。食品安全委員会の調査によれば、事故頻度がこんにゃくゼリーより数十倍高いという結果が出ていても、です。

 このように薬物の違法性については、それ自体の有害性を踏まえつつも、恣意的に峻別されている面も大いにある。しかし、だから法を守ることに意味がない、ということではまったくない。そもそも法とは本質的にそうした恣意性を内包するものであり、社会をうまくまわしていくための“方便”であるに過ぎないともいえるからです。

 さて、では恣意的とはいえそうして法的に“悪”だとされた薬物に手を染めたとき、日本の法律ではどんな取り締まりが行われるのか? また、そうした法の網をくぐり抜け、国内外でどんなビジネスが展開されているのか? 次回はそのあたりの実情を見ていきたいと思います。

河合幹雄(かわい・みきお)
1960年生まれ。桐蔭横浜大学法学部教授(法社会学)。京都大学大学院法学研究科博士課程修了。社会学の理論を柱に、比較法学的な実証研究、理論的考察を行う。著書『安全神話崩壊のパラドックス』(岩波書店、04年)では、「治安悪化」が誤りであることを指摘して話題となった。その他、『終身刑の死角』(洋泉社新書y、09年)など、多数の著書がある。

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