(写真/永峰拓也)
『千のプラトー 資本主義と分裂症』
ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ(宇野邦一、豊崎光一ほか訳)/河出書房新社/7500円+税
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズと、精神分析家フェリックス・ガタリが、複雑に入り組んだ高度資本主義社会における人類の営みを新たなコンセプトで読み解く、フランスのポストモダン思想を代表する大著。
『千のプラトー 資本主義と分裂症』より引用
だから資本主義とともに国家が廃絶されるわけではなく、国家は形態を変え、新しい意味を担うようになる。それは国家を超える世界的公理系の実現モデルにほかならない。だが超えるとは、国家なしですませるという意味では決してない。
今回は資本主義と国家の関係について考えましょう。
資本主義と国家の関係についてよくいわれるのは、「資本主義と国家は対立する」ということです。たとえば「グローバリゼーションがこのまま進めば、国家の壁はますます低くなり、やがて国家は消滅していくだろう」といわれることがありますよね。そこで前提とされているのは、「資本主義が発達することで国家の役割はどんどん小さくなっていく」という発想です。
規制緩和が主張されるときも、同じような発想がみられますよね。たしかに、社会を見渡してみると、経済発展のためには撤廃したほうがよさそうな規制も少なくありません。とはいえ、規制緩和の主張はそこにとどまらず、しばしば「国家は市場に介入すべきではない」という主張にまで拡大されることがあります。2008年にアメリカで金融危機がおこる以前、バブル経済に沸き立つアメリカの金融界からさかんにいわれていたのも、まさにそうした「反国家的な」主張でした。資本主義経済にとって国家は邪魔なだけだ、という発想がそこにはあります。