なぜ死刑という「暴力」は合法なのか?合法的な暴力と不合法な暴力の違いについて考える

(写真/永峰拓也)

『暴力批判論 他十篇 ―ベンヤミンの仕事1―』

ヴァルター・ベンヤミン(野村修・編訳)/岩波文庫/760円+税
20世紀ドイツを代表する思想家・批評家のひとり、ベンヤミンの論文集。法と暴力の関係、倫理性を問う「暴力批判論」のほか、「翻訳者の課題」「認識批判的序説」「一方通交路」「ベルリンの幼年時代」など10編を収録。

『暴力批判論 他十篇― ベンヤミンの仕事1―』より引用
適法な暴力と不法な暴力とを区別することの意味は、自明ではない。その意味は、正しい目的のための暴力と不正な目的のための暴力とを区別するところにある、とする自然法的な誤解は、、きっぱりとしりぞけられねばならぬ。

 かつて日本最大のヤクザ組織である山口組と、そこから分裂した一和会のあいだで、大規模な抗争が繰り広げられたことがありました。1980年代半ばから後半にかけてのことです。当時、その抗争は「山一戦争」と呼ばれました。

 この「戦争」と、第二次世界大戦やベトナム戦争、あるいはイラク戦争といった、国家がおこなう戦争とはどこが違うのでしょうか。
 規模が違う、というのはたしかにその通りですね。いくら山口組が大きな組織だからといって、その抗争の規模は国家がおこなう戦争とは比べ物になりません。ただ、山一戦争の規模がもっと大きくなれば国家間の戦争と同じものとなるかといえば、そうではありませんよね。では、何が違うのでしょうか。

 一番の違いは、山一戦争はあくまでも犯罪として取り締まりの対象に位置づけられているのに対して、国家間の戦争は犯罪としては位置づけられていない、という点です。つまり、一方は非合法な暴力とされているのに対して、もう一方は合法的な暴力とされている、ということです。

 もちろん国家間の戦争においても、戦後に戦勝国が敗戦国を戦争犯罪で裁くということはあります。とはいえ、現在でも自衛のための戦争は国際法的にも認められていますし、戦争をおこなおうとする政府が「これは違法な武力行使だけど戦争します」とは決していわないでしょう。戦争がなされるときはあくまでも合法的な武力行使としてなされるのです。

 同じような区別はほかにもあります。警察が犯罪者を捕まえて牢屋に監禁することは合法的な実力行使ですよね。これに対して、私たちがどうしても許せないやつがいるからといってその人間を捕まえてどこかに監禁すれば、それは犯罪、つまり非合法な実力行使とされてしまいます。たとえその相手の人間が犯罪をおかした人間であっても、です。

 では、なぜヤクザの抗争は非合法とされ、国家の戦争は合法だとされるのでしょうか。また、なぜ警察による逮捕・監禁は合法だとされ、市民による逮捕・監禁は非合法だとされるのでしょうか。要するに、合法な暴力と非合法な暴力は、どのような理由によって区別されるのでしょうか。多くの人は、正しい暴力だから、と考えるかもしれません。つまり、国家の戦争であれば「国を守るため」という正しい目的があり、警察による逮捕・監禁には「犯罪者をつかまえて治安を守る」という正しい目的があるのであり、その正しい目的のための暴力(実力)行使だからそれは合法とされるのである、と。

 こうした考えは一見もっともなようですが、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンは、そうではないと考えます。上の引用文をみてみましょう。そこでベンヤミンはこう述べています。すなわち、合法な暴力は正しい目的のための暴力だから合法なのだ、と考えてしまう発想は誤解であり、きっぱりと退けられなければならない、と。このベンヤミンの指摘はとても重要です。とはいえ、すぐには納得できないかもしれません。死刑を例にして考えましょう。

 死刑もまた人の命を強制的に奪うという点では暴力です。合法的な殺人といってもいいかもしれません。たとえ相手が凶悪犯罪者だとしても、そこで強制的に人の命が奪われることには変わりないからです。日本のように死刑制度を存置している国では、死刑判決が下されれば、法の名のもとで合法的に人の命が奪われます。

 では、なぜ死刑という暴力は合法だとされているのでしょうか。多くの人はそれを「正しい目的のための暴力だから」と考えるかもしれません。たとえば「死刑は凶悪犯罪者を処罰するという正しい目的のための暴力だから合法である」と。あるいは「凶悪犯罪を抑止するという正しい目的のための暴力だから合法だ」「被害者遺族の感情を慰撫するという正しい目的のため」といった答えがだされるかもしれません。

 しかし、もしそれらの正しい目的によって死刑が合法とされているのであれば、その目的を果たせるなら誰が死刑をおこなってもいい、ということになりますよね。その場合、正しい目的が達成されさえすればいいわけですから。

 たとえば1999年におきた光市母子殺害事件では、犯行当時18歳だった被告に無期懲役判決が下されたとき、妻子を殺された夫が記者会見で「加害者を社会に早く出してもらいたい、そうすれば私が殺す」と発言し、多くの人びとが共感・支持しました。

 では、もし本当に加害者が刑務所をでることになり、この夫が加害者を殺したとしたら、どうなるでしょうか。国家はあくまでもその行為を犯罪として、つまり非合法な暴力行為として取り締まるでしょう。たとえその行為が「凶悪犯罪者を処罰する」「凶悪犯罪を抑止する」「被害者遺族の感情を慰撫する」といった目的にかなっていたとしても、やはりそれは非合法だとされてしまうのです。合法的な暴力は正しい目的のための暴力だから合法とされているのでは必ずしもないんですね。

 では、合法的な暴力はどのような理由で合法とされているのでしょうか。引き続き、次号で考えましょう。

(構成協力/橋富政彦)

かやの・としひと
1970年、愛知県生まれ。03年、パリ第十大学大学院哲学科博士課程修了。哲学博士。津田塾大学教授。主な著書に『国家とはなにか』(以文社)、『カネと暴力の系譜学』(河出書房新社)、『権力の読みかた』(青土社)など。近著に『最新日本言論知図』(東京書籍)、『新・現代思想講義 ナショナリズムは悪なのか』(NHK出版新書)など。

今すぐ会員登録はこちらから

人気記事ランキング

2024.11.23 UP DATE

無料記事

もっと読む