救護所に収容された親子(大芝国民学校)
1945年9月、旧東方社のカメラマン・菊池俊吉は、原爆によって壊滅した広島を撮影するために東京を出発した。東方社は戦中、「FRONT」の制作を行っていた陸軍参謀本部管轄(45年に東部軍司令部の管轄になる)の対外宣伝機関で、木村伊兵衛や原弘らも在籍していた。敗戦によって仕事もなくなり、元社員たちが途方に暮れていた頃、日本映画社から原爆被災記録映画のスチルカメラマンを探しているという話が木村にあった。菊池はそのときのことを「名乗り出た記憶はないが、ただその当時は、先行きがまっ暗で、どうして生きて行くかがまず第一でした。九月半頃に話があったのですが、仕事をしないで、まったくだまっているのがつらいといことで、行くことになった」と回想している。原爆症の話もチラホラと伝わってきていたが、「一人身の気安さで」行くことにしたという。日本映画社の撮影班は文部省(当時)の原子爆弾災害調査特別委員会学術調査団に組み込まれ、菊池は医学班に編入されて10月から広島の撮影が始まった。同僚の林重男は、物理班の一員として広島と長崎の撮影を行っている。