――文明が進むほど、社会は宗教的なるものへと回帰していくのか──。世俗化の時代を経て、進歩に限界を感じた人々が宗教的伝統を選ぶ動きは、本当に世界共通といえるのか。イスラムの復興や、アメリカの福音派を例に議論は展開していく。
【第一回「現代日本と宗教の関係」はこちら】
【第二回「現代日本と宗教の関係」はこちら】
【第三回「現代日本と宗教の関係」はこちら】
【第四回「現代日本と宗教の関係」はこちら】
戦後、共同体を軸に勢力を伸ばした新宗教だが、80年代に入ると、幸福の科学などの団体では、個人主義的な信者が増えたという。写真は幸福の科学・大川隆法総裁。
島薗 マックス・ウェーバーの時代の宗教社会学は世界史全体を問題にするビジョンを持っていましたが、第二次大戦後の宗教社会学は狭く限定的になり、キリスト教世界の現代の動向を調査するものが主流となりました。その際の議論としては、世俗化(脱宗教化)論が中心的な議題となりました。それはウェーバー的なビジョンから見ると狭い議論ではありましたが、背後に現代人の自己意識は今後どこに向かっていくのか、という問題意識があった。近代合理主義の自己意識、それはまた世俗主義ともいえるかと思いますが、それが確かな帰着点だと考えられていたんです。
ところが1979年に起こった、イスラムへの回帰を掲げたイラン革命以降、世界のどの地域も世俗化に向かっていくという議論は信じられなくなっていきました。発展途上国も次第に宗教を捨てて近代化していくというよりも、むしろ宗教勢力が強くなり、そのアイデンティティをバネにして近代化していく傾向が強まるというのです。
一方、アメリカのような先進国においても、それまで進歩だと思われていたことが必ずしもそうではなく、環境問題などの科学文明の弊害が自覚され、都市における暴力、退廃、若者の目標喪失、さらには人種や民族による対立といったことに苦しめられるようになります。そういう中で若者が宗教に向かう傾向が見えてくるようになる。
60年代にアメリカではカウンターカルチャー(対抗文化)が起こり、若者たちが東洋や先住民の宗教にひかれて教会から離れていく。その流れの一方で、同じ時期に他方では、キリスト教の保守派──エヴァンジェリカル(福音派)やファンダメンタリスト(原理主義者)といった人たちも増えていった。それは20世紀前半とは異なり、インテリ層にもかなり食い込んでいきました。これがやがては宗教右翼のようになるのですが、その境目となったのが先進国のベビーブーム世代。この世代は最初は伝統文化から離れる方向に行きながら、その後、逆カーブに向かう傾向が一部に見られました。そしてそれ以後の世代はというと、初めから進歩よりも伝統に向かうような様子も目立つようになりました。これを宗教復興と言う人もいるのですが、本当にそう呼べるのかどうか。またこれは世界的に共通した傾向なのか。日本にも当てはまるのか。橋爪さんは、このあたりをどうご覧になっているのでしょう?
橋爪 おそらく日本には、こういう世界の動向は当てはまらないですね。日本には過去何回か宗教ブームもありましたが、いずれもそれほど大きなインパクトはありませんでした。ただ、世俗化に向かうと思われていた流れが逆転して、宗教が新たに蘇っていくという傾向は、日本にも見られないことはない。
ひとつはマルクス主義の動向。マルクス主義は合理主義がベースで、宗教の要素はほとんどなく、宗教を敵視して、死滅すべきものだと主張していた。マルクス主義が大きな力を持った社会ではおおむね、宗教は低調になりました。50~60年代はそのような時代でしたが、56年のフルシチョフによるスターリン批判をきっかけとして、マルクス主義──ポストモダン風に言うと「大きな物語」──が崩れてきて、退潮していく。89年のベルリンの壁の崩壊以降、それがさらに大きな流れとなり、東欧など多くの国々で宗教が盛り返してきています。ロシアでもオーソドックス(ロシア正教)が生き返って、今はプーチン政権と二人三脚のようになっている。
中国でも、文化大革命でさんざん弾圧されたにもかかわらず、宗教の存在は根深く、仏教徒やキリスト教徒が増えています。あと法輪功など非合法の新宗教も地下に潜行していて、宗教はむしろ大々的に復活しています。アメリカでもエヴァンジェリカルの勢力はあなどりがたいし、保守派の運動であるティーパーティーのようなメンタリティとも結びついている。
一方、ヨーロッパはちょっとさめている。とはいえ、国によっては根強く宗教が存在しており、決して死滅に向かってはいない現状があります。
島薗 私の認識も、日本は別として、おおむねその通りです。ただ、キリスト教のあり方は、かなり変わってきていますね。かつてはキリスト教は文明の進歩の先頭にいる宗教と認識されていました。進歩に従うことと、キリスト教の信仰を持つことが重なっていた時代があったのです。
私はアメリカで、社会学者タルコット・パーソンズの弟子である、ロバート・ベラーという宗教社会学者について学んだことがあります。パーソンズや彼の弟子たちは、皆キリスト教にかなりの尊敬心を持ち、信仰も持ち、かつ社会学にも希望を持っていた。ですから近代的な社会学とキリスト教がうまく歩調を合わせて、よりよい世の中を作っていくという感覚を持っていたのです。